2017年10月28日土曜日

LUNCH POEMES@DOKKYO vol.9



 伊勢路、熊野古道への旅から、もどりました。

 さて、1019日の第三木曜日。第9回「LUNCH POEMES@DOKKYO」が開催されました。2017年度後期初回にあたる今回、お招きしたのは詩人の八木幹夫さん。

 「声で聞いてわからない詩には欠陥があるのでは」という問いかけを発しながら、詩作をつづけている八木幹夫さん。平明な日本語によって巧みにつむがれるポエジーと抒情、言葉遊びをふんだんに盛りこんで書かれる詩は、同時に、言葉が発生するトポスを探求する独自の実験をこころみている。

 学生さんたちは、そんな八木さんの詩にふれられて、とても有意義なひとときをすごしたようだ。イベントが終わったのち、「八木さんの詩のファンになりました」と話しかけた学生もいたとか。ながらく教職にあり、バスケットボール部の顧問もされていた八木さんは、やさしく、気さくで、若者たちのこころをつかんだことだろう。お話も、すごく上手だし。

 ぼくが八木幹夫さんの詩と出逢ったのは、ずいぶんまえのこと。詩集『野菜畑のソクラテス』で、現代詩歌花椿賞と芸術選奨文部大臣新人賞をダブル受賞されたころだ。今回、八木さんにお声をかけたのは、ぼく。H氏賞授賞式ではじめてお話させていただいて以来、慶應大学で開催されている「西脇順三郎の会」にお誘いくださり、いい映画がかかっていると気さくにメールをくださる。先日の浜江順子さん主催「クロコダイル朗読会」にも、お客さんとして、身軽にお越しくださった。

 世代も詩の作風も多様な「LUNCH POEMES@DOKKYO」のラインアップのなかでは、いまのところ八木幹夫さんがいちばん年長。でも、八木さんの詩が、孫にもちかい世代のこころに響いたと実感できて、ディレクターとしてとてもうれしい。ほんとうにいい詩、すぐれた詩人の言葉と声は、世代も時代もこえるのだ。

 イベント翌日、ぼくは一言お礼をいおうと、八木幹夫さんにお電話した。丸山薫賞選考委員のひとりである八木さんは、すでに豊橋にいらっしゃるという。熊野の話をすると、八木さんは佐藤春夫ではなく中上健次の話をされた。「雨の熊野もいいでしょう…」。どこかを見つめるように遠い、ゆったりとした声で。

 次回、記念すべき第10回「LUNCH POEMES@DOKKYO」は1116日第三木曜日に開催予定。ゲストは、母語とジャンルとジェンダーを越境する女性詩人、ぱくきょんみさんを予定しています。いまから、すごく、たのしみ。詳細は下記「LUNCH POEMES@DOKKYO」仮ホームページをご覧ください。前期7月に開催された第8回の詩人ジュディ・ハレスキ(Judy Halebsky)さんの動画もYouTubeにアップされています。

https://hara-zemi.jimdo.com/lunch-poems-dokkyo/


 八木幹夫さん、ありがとうございました!

2017年10月13日金曜日

「平昌 韓中日詩人祭2017」、開会式の夜






(写真:韓成禮/ハン・ソンレ氏)


「平昌 韓中日詩人フェスティバル2017」初日の9/14は、ソウルからバスで開催地となる平昌(ピョンチャン)に移動。二時間半の距離。会場は、2018年開催の冬季五輪となるリゾート施設群だった。

到着後は、各自、ホテルで昼食、休憩。同行の詩人、杉本真維子さんや萩原健次郎さんらと、周辺を散策。ホテル「アルペンシア」はスキージャンプ台のすぐ裏手。

午後4時から、メイン会場の「アルペンシアコンベンションセンター」で韓中日の代表詩人と韓国詩人協会団の総勢200名、政府関係者、マスコミが列席して開会式宣言。フェスティバルのテーマは「平和 環境 癒し」だ。会場は、よく政府や企業、団体の国際会議がひらかれているようで、いたるところに記念写真がかざられていた。基調講演を、韓国詩人協会長の呉世榮氏、日本代表の石川逸子さんがおこなう。閉会後、ぼくは韓国テレビ局KBSからインタビューを受けた。

晩餐会のあとは、夜7時半から「詩朗読コンサート」。日本からは、中本道代、柴田三吉、紫圭子、細田傳造、大城貞俊の各氏とぼくが出演。

今回のフェスティバルは韓国政府の開催ということもあり、ぼくが経験した国際詩祭のなかでもひときわ豪勢だった。電話帳ほどおおきく分厚い、代表詩人たちの韓中日対訳詩アンソロジー、さらにそこから選抜された詩人たちを編むハードカバー版記念アンソロジーが列席者全員に配布。一般客にも販売。そして、ハングルに訳された日中各詩人全員の詩作品が、一枚一枚、韓国の書家によって揮毫され、画を付され、青白陶磁器に焼かれて展示されている。いくつかの詩作品をテーマに描かれた現代アートや絵画も展示されていた。拙詩集『まどろみの島』を題材に描かれた作品もあったようだ。

ぼくら日本の詩人たちは、韓国の手厚い歓待に圧倒されるばかり。

そこには、詩や文化にたいする想いが、細部にまで熱くこめられている。

ぜひ、知ってほしいのだけれど、じつは、韓国、中国、台湾などアジア諸国で常時開催されている国際詩祭および文芸フェスティバルは、日本には、皆無。過去に日本政府後援で開催された記憶もない。日本政府は国際的な文化交流、いや、文化そのものにたいし、どうしてこうも冷淡なのか。規模のかかわりなく、海外に招かれ、詩人や一般観客の方々から真心のこもった歓待を受けるたび、ぼくはやるせなさと恥ずかしさをおぼえる。なぜなら、ぼくら日本の詩人は海外に招かれることはあっても、他国の詩人たちをお招きすることがない(民間企業団体や大学教育機関はべつだが)。「経済大国日本」、「おもてなし」が、きいてあきれる。国際文化交流にかんして、日本はじつに傲慢で、アンバランスな関係を他国に強いている。


海外の文化政策を日本に伝え、改善を訴えてゆくのも、招聘された者の役目だと思う。

2017年10月6日金曜日

閑話休題、駒井哲郎展へ


地元の北浦和公園内にある埼玉県立近代美術館で、「駒井哲郎 夢の散策者」展が開催されています。


9/12からはじまって、10/9まで。平昌詩人祭にゆく直前が開催日だったので、〆切もつづき、なかなかゆくことができなかったが、なんとか時間をつくって鑑賞した。建築家・黒川紀章が設計し、1982年に建った近現代美術専門の美術館は、いまの美術館の規模からすると小体だが、緑のなかにたたずむ美しい美術館だ。

そんな、郊外の小宇宙で、駒井哲郎のちいさな銅版画たちに、静かにふれられたことが、忙しい日々のなかでことのほかうれしかった。

1949年制作の「夢の始まり」からはじまる展示は、1935年〜1953年までの初期作品にも焦点をあてたということかもしれない。上写真の「束の間の幻影」(1951)は高名な作品だ。でも、  40年代の「夢」の連作は、詩的としかいえない駒井哲郎の固有の銅版画世界が、すでに確立されていたことを物語る。渡仏し、ビュランやヨーロッパの銅版画の伝統を学んだ駒井哲郎は、たしかに、技術的にも奥行きとひろがりをえたけれど。ぼくは、中世の木版画のような、不思議な夢のぬくもりをつたえる初期作品に、深い好感をいだいた。

そして、もちろん、詩人・安東次男との詩画集『からんどりえ』と『人それを呼んで反歌という』。その原画が、展示されていた。60年刊行の『からんどりえ』からは「Juin 球根たち」と「Novembre 樹木」。ぼくは66年にエスパース画廊から刊行された『人それを呼んで反歌という』をもっているのだけれど、原画を観たのは、はじめて。表紙原画や「人それを呼んで反歌という」は駒井特有のあたたかく深い白と黒で、詩画集とは色彩が異なっていた。ほかの銅版画や展示資料のあいだをさまよいながら、なんどもたちかえって観る。『からんどりえ』と同時期の「手」という作品にも魅せられ、見入った。

おもしろかったのは、駒井哲郎愛用のプレス機が展示されていたこと。世田谷美術館での回顧展で観た記憶がある。

美術館のドアを押して外にでると、金木犀の香り。駒井哲郎の銅版画世界が、秋の予感とともにおとずれてくれた。