2020年7月22日水曜日

砺波周平『続 日々の隙間』−読書日誌2



鬼怒川金谷ホテルのパンフレットの巻頭エッセイでいっしょにお仕事をさせていただいている写真家砺波周平さんから、氏の写真集をご恵贈いただいた。

 ここ半月は、大学も打ち合わせもすべてオンライン。週にいちど、仕事で東京にかようほかは、蟄居して、原稿を書き、グラスを片手に本を読む毎日。PCにはさわらず、テレビも動画もまったくみないから、プルーストも幸田文も、家の書架にあった全集はほぼ読破してしまった。そうして、言葉につかれた日々の隙間に、ぼくは砺波さんの写真集をひらく。

 『続 日々の隙間』は、砺波さんが暮らす長野の日々を写しだす。もともと、砺波さんは森林や山中で自然光だけをたよりに撮影する写真家。ぼくが商業的な仕事でご一緒するときも、アウトドアな服装で、室内をほぼまっ暗にして撮影する異色の写真家だ。

 ところが、ここに収められた写真作品たちは、砺波さんの自宅と敷地周辺にかぎって撮影されている。
 
 被写体は、家族の日常。奥書には「まだあどけなさが少し残る。そんな彼女が子供を産んだ」とあり、子どもたちが育つ日々を主旋律に、家事と子育てにむきあう「彼女」の姿と、老いて死にゆく犬と猫、パンケーキの朝、野鳥、雪、山の木々、皀の実、草原、長野の自然が対奏をなして織りあげる光と影をファインダーにおさめてゆく。

 砺波周平の光を、なんと名づければよいだろう。砺波周平は口数のすくない、ちょっと不器用で、やさしい男だ。その男の瞳が、偽りなくあるがまま感光し、家族と木とちいさな生物たちのやわらかくも厳かな表情へと定着してゆく。小鳥が死んで羽だけになる姿が、なかば放心した子の瞳に強い光を宿す、その表情へと。

『続 日々の隙間』は、静謐な沈黙に彩られた、切なく、美しい写真作品集だ。けれども、けっして淡彩でも、淡々としてもいない。

その日々の隙間からは、父であり写真家の烈しい情念が湧水している。ぼくは、砺波さんの写真を「口数のすくない、ちょっと不器用で、やさしい」光といいたい。その光は、家族のもとで渦巻いては、幸福でありつつも孤独な一滴となって、また新たな日常へと揺蕩ってゆく。その、まぶしさが、ぼくの胸をうつ。

2020年7月14日火曜日

鳥居昌三編『TRAP』 読書日誌1




 詩人のヤリタミサコさんより、お手紙がとどいた。「偶然 30年以上もとどまっている美しい冊子たちがいます」と、ポーラ美術館のレオナール・フジタ展の便箋にペンシルの文字。同封されていたのは、一九九〇年六月刊行、伊東の詩人鳥居昌三氏が編集刊行した『TRAP』第12号だった。

 限定195部也。表紙も本文用紙も厚手の和紙で、活版印刷された無綴の三五頁がノンブルをふられ挟まれているだけの、極度にシンプルで美しい装幀だ。
 表紙カットは、北園克衛「机」。
 佐々木桔梗氏の労作「山中散生ノート〈2〉」を巻頭に、参加詩人はJohn Solt、金洋子、島木綿子、黒田維理、David Mamet、茂木さと子、そして鳥居昌三の各氏。Nicole Rousmaniere氏の視覚詩も挿し挟まれている。
 ヤリタさんによれば、この美しい詩誌たちが十部、ある日、突然、送られてきたのだとか。

 ここ幾晩か、信州のマルス・ウヰスキイをショットグラスで舐めながら、一篇ずつ大切に耽読している。
 ぼくの宝物の一冊、と書きたいが、この詩的リフレットの温かくも浄らかなたたずまいほど〈私有〉から遠いものはない−−桃山の古唐津のように。
 だから、ぼくも、「偶然 とどまっている」とだけ、いまは書いておこう。そして、時がきたら、この詩冊子を若き詩人に手わたそうとおもう。ヤリタさんがそうしてくださったように。

 窓の外は、降りやまない簷雨。鳥居昌三「海」を読む。

過ぎ去っていく記憶の底で
きらめくものが
ある

一九九〇年六月の雨の音を聴きたくて。