2017年5月31日水曜日

空蓮房詩個展、書家・北村宗介さんのこと


昨年の冬の晩、都内でパーティーがあって、その帰路のこと。新橋のバーで小説家や編集者の方々とわかれ、京浜東北線の最終電車に乗る。つり革をにぎり、ぼんやりたっていると、男が、ぼくのとなりにならんだ。蛍光色のダウンジャケット、ゆたかにたくわえられた灰色の髭にたいし、禿頭にちかいモヒカン、眼鏡の奥でギラッと光る酔眼。

「あんたは、いったい、だれだ!」と、その御仁。
ぼくは、当然、やばい酔客だと思う。こうした、ささやかな不運には冷静に対処し、おだやかに男からはなれてゆこうとするのだったが。
「生きる、ということを、一言で窓に書いてください」と、さらに男が、問う。

普段のぼくなら、黙ってたち去っただろう。でも、不得手な文壇社交で多少、こころがざわついていて、酔ってもいたし、なんとなく、おもしろい、と、その御仁のことを思ってしまったのだ。ひといきれで結露した窓に、ぼくは指で「一滴一凍」とか、なんとか、書いた。したたり、くずれてゆく禅語を見、ぼくの説明に耳をかたむけていたモヒカンの男は、ただ、一言。

「よし。浦和で、呑もう!」

それが、書道家・北村宗介氏との出逢いだった。

浦和駅ちかくの魚民で、ぼくらは好きな書をあげ、盃をあげつづけた。空海「風信帖」、良寛、王羲之、藤原定家、紀貫之、安東次男、小山冨士夫、岡本かの子。北村さんの師、反骨の書詩家・木村三山についても教わり、その薫陶から、日本の近現代詩を読まれていることを知って、文学やアートを語りあかした。写真は、午前四時ごろ、魚民をおいだされた?ぼくらが駅で缶麦酒をカンパイするの図。

梅が満開になったころ。北村宗介さんから、小包がとどいた。先に送った『耳の笹舟』への、あたたかい言葉がやわらく流れるような小筆でそえてあり、おもたい石と、木箱のようなものがはいっている。開封してみると、たわわに実った稲穂(瑞穂)が細やかに描かれ「MIZUHO A POET」と篆刻された欧風璽印と、木箱で装幀された落款(下写真)が、あった。

篆刻から押印、木箱まで、すべて、北村さんの手になるもの。ぼくは、秀逸な作品はもとより、北村宗介という書家のやさしさに、こころから感じいってしまった。天にも昇るうれしさで、謹んで璽印をロンドンブックフェアに持参いたします、と礼状をしたためたのだった。

本格的な古典書道はもちろん、現代的でアブストラクトな「書影」から篆刻作品まで幅広い表現力をつちかわれ、さらには、小説家・山本兼一氏の直木賞受賞作『利休にたずねよ』や、おなじく小説家・宮部みゆき氏のベストセラー『孤宿の人』の題字を揮毫されるなど、人気書家としての北村宗介さんを、ぼくは追々知ることになる。ロンドンから帰国後、空蓮房詩個展のアートディレクターをつとめる奥定泰之さんと対話してゆくなかで、ぼくは、おそるおそる、北村宗介さんに協働展示のオファーをした。なんと、快諾のご返事。うれしくて、その晩は、古唐津盃を懐中に浦和の寿司や「よし佳」で呑みあかした。

そして、青梅のころ。北村さんとぼくは、浦和の老舗居酒屋「丸真」でおちあう。鯛のおつくり、焼穂先たけのこ、特選ホルモン焼き、名物レバテキ。酒は、黒龍「しずく」、菊正宗樽酒。北村宗介さんご本人を知る方は、冒頭で書いたエピソードに、首をかしげられるかもしれない。紳士で、折り目正しく、言葉遣いは丁重。若輩詩人のぼくにたいしても、えらそうなところはいっさいない。個展の打ち合わせをしながらも、あいかわらず、ぼくらは書・文学・アートを肴に盃を乾していった。

北村さんは、学生時代はラガーマン。筆をとる体力づくりのため、いまも毎日、見沼の桜回廊を10キロ、ランニングする。書道に開眼したのは大学生時代をすごした北海道で、弘法大師空海の書に出逢ったことがきっかけだった。体中の細胞がいれかわるほどの衝撃をうけ、うれしさのあまり、その晩は友人との呑み代を全員分奢ったとか。料理上手で、故郷静岡のうどんを手打ちする。「ほんらい、書家は篆刻もし、絵も描き、詩も書かなくてはなりません」。東京からすこし距離をおいた田園で日々研鑽し、すこやかに、のびのびと活躍されている。当に文人墨客が、近隣で暮らしていることに、ぼくは密かに鼓舞されています。

そうして、空蓮房詩個展にむけて仕上がった北村宗介さんの書作品は、凄い、です。巨きな空(くう)というか、宇宙に根をのばす心肉というか。言葉から生まれたはずの書が、言葉を尽くしても語れそうにない。これはもう、ご覧いただくほかはありません。

ぜひ、ご来場ください。

http://www.kurenboh.com/





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