2020年5月26日火曜日

解除後、バー再訪。




さいたま市では、コロナ・ウィルス禍による非常事態宣言が解除された。結局、アベノマスクは届かなかったな。もう、どーでもいいけど。そんな今朝は、夏の装いで自転車を漕ぐ通勤者の人数もおおかった気がする。だんだんと以前の日常がもどってきそうだ。
ぼくはといえば、ここ二週間、原稿の執筆や大学のオンライン講義で、多忙だった。さらに来週からは、箱根をはじめ県外への出張仕事もはじまる。あすはひさしぶりに横浜へ。

そこで、肩ならし(?)に、浦和の名バー「リンハウス」へ。
都内での仕事だったから、夕方早めに浅草の鎌寿司でかるくつまんで呑み、浦和へ。人もまばらな湘南新宿ラインのグリーン車内にて、銀軸のボールペンでツバメ印のノートに注文の詩のつづきを。
バーカウンターに着くと、マスターが「あれ、だしましょうか」。
自宅ではあまりつかわれることのなかった、1920年代のバカラのクリスタルコブレット(高杯)を、おいていただいている。酒は、マスターのオリジナルカクテル「ルーチェ」。光、という意味で、レシピはマンゴー、桃、サンジェルマン、エルダーフラワーなど。スタートもいいが、フィニッシュにも愛飲している。

この夜は、「シングルモルト余市アップルブランデーウッドフィニッシュ」でしめくくる。竹鶴政孝さんと妻リタさんの結婚百周年を記念し、春にリリースされた幻のボトル。キックとともに、北国のリンゴのさわやかな香りが花ひらく。すばらしかった…。
帰り際に、常連の小説家Kさんがぶらり入店。「安倍の野郎…自民は全員クビだ、クビ」と苦笑する小説家と政治から古剣術談義へ。浮きかけた腰をスツールに留めなおし、光を、おかわり。

2020年5月19日火曜日

原成吉著『アメリカ現代詩入門』を読む



 新型コロナ対策で、ぼくが教えている大学やカルチャースクールでも完全オンライン講義が実施されている。コンピュータがぜんぜんダメなぼくも、教務課の職員さんに教えていただきながらズームとメールを併用している。
 ところが…、話題のズームは、どうしても不完全なコミュニケーションツールだから、事後処理や補完のための仕事が雪だるま式にふくれあがる始末。コミュニケーションも一方通行になりがちで、「ないよりはまし」が、ぼくのズームへの評価かなあ。むしろ、シンプルに、メールだけのほうが、学生さんたちとの文通にも似て、詩という複雑にして繊細な文芸を教えるには適しているとおもう。言葉の力はやはりすごい。不幸中の幸いで、ぼくにはウェブ連載と著書があり、それらを活用してなんとかのりきろうとしている。
ぼくは会社員や公務員のテレワーク化にかんしては推進派なのだが、こと講義となると、リアルのほうが圧倒的に情報伝達力も交感力もすぐれていると痛感せざるをえない。今回のコロナ禍からは、いろいろなことを学んでいる気がする。

そんな事情もあって、ブログの更新がおくれてしまいました。

さて、オンライン講義についてモヤモヤ感をぬぐえないぼくが、くりかえし読みかえしている本がある。アメリカ近現代詩研究が専門で獨協大学教授の原成吉先生が著された『アメリカ現代詩入門 エズラ・パウンドからボブ・ディランまで』(勉誠出版)です。
 書名があらわす多彩で幅広い射程も魅力だが、本書の特長は、パウンドやウィリアム・カーロス・ウィリアムズなどのモダニズム詩をアメリカ詩の「第一世代」、チャールズ・オルソンら第二次世界大戦後の詩を「第二世代」、アレン・ギンズバーグらビート・ジェネレーション以降の詩を「第三世代」とした切り口。ウォルト・ホイットマンやロバート・フロストからはじまるアメリカ詩史から脱却した観点にある。ヨーロッパ古典詩の定型韻律ではなく、アメリカ独自の口語と事物を種に「固有の詩形、実験的なラインブレイク」を咲かせてきたのが、アメリカの近現代詩。その進展と分岐を、原先生はアメリカ詩史を物語る原理とした。


 たとえば、ウィリアムズ。ロンドン、イタリアへと渡り「モダニズムの興行師」となったパウンドとは対照的に、ウィリアムズはニュージャージー州ラザフォードで開業医をいとなみながら「アメリカ土着のモダニズム」を探求しつづけた。左記にふれた本書の概要は、ぼくにはウィリアムズのなした詩業そのものにも聴こえる。
欧州芸術と世界史から糸を紡ぎ〈引喩と虚構〉の詩を巧みに織りなすパウンドにたいし、ウィリアムズはアメリカを虚構ではなく言葉の種子、詩の第一質料にした。アメリカという種子が孕む多彩かつ膨大な他者や事物たちが織りなす日常を、ウィリアムズはいっさい排除することなく、新しい詩的言語によりポエジーが成立する特異な強度へとくみかえる。それにより、観念ではなくリアルによってつねに生成し変化する詩を書いた。そう、本書のすぐれた帯文が語るように「『いま、ここ』にあるすべてをうたう」アメリカの詩は、ウィリアムズからはじまったのだ。
アメリカが種子であるなら、ウィリアズの詩は胚葉体。個体化する多様体であり、自己の境界を自己が創りだしてゆく複雑怪奇な自己生成系の詩である。…これ以上、書きつづけると論考になってしまうので、ペンを留めよう。ぼくも、いつか、じぶんのウィリアムズ論をものしてみたいのだ。

なにより、原先生の言葉は、とても平易でやわらかい。何年も講義やゼミで練成し、学生に語りかけてきた言葉で書いてあるから。ところで、原先生はぼくにこんな話をしてくれたことがある。先生が書かれた文章や訳された詩は、発表前にかならず奥様に聴いていただき、その感想を参考に朱筆をいれてゆくのだと。
まるで、ウィリアムズと妻フロッシーのようではないか。

2020年5月7日木曜日

酒食日誌(1)




 新型コロナへの非常事態宣言が、埼玉では延長され、家に静居の日々がつづく。大学はオンライン講義、打ち合わせもオンライン。
 そんな折、家呑みが、畢竟、愉しみである。

 ぼくは小説家ではないので、コロナ以前は外出もおおく、喫茶店やバーを書斎がわりに原稿を書いてきた。携行用の原稿用紙やノートに書きつけた草稿は、コンピュータで清書してもらう。有名な話だが、作家の内田百閒や池波正太郎は外出できず蟄居して書くので、自宅の酒食が最重要だった。内田氏も池波氏も食事日誌をつけてい、毎食のメニューにこころをくだいていた。
 
さて、おなじ境遇となったぼくも、少々、晩酌について記そう。今晩の石田家の献立は、

先付 香物 山うどのたいたん 烏賊一夜漬
酒肴 明石蛸ざく
主菜 若鶏の信州平茸はさみ焼き
食事 筍と山うどの炊きこみご飯 味噌汁

酒 神龜純米吟醸限定生酒

 酒器は、小山冨士夫作斑唐津盃と江戸期麦藁手片口茶碗。ここのところ、いっきに夏日の気温になってしまったので、黴やすい春の徳利はしまい、初夏初秋の酒器をだしてしまった。酢蛸を盛った李朝期の刷毛目皿は、もともと酒器としてつかわれていた伝世品。
 気分転換も兼ね、夕食は、ぼくが包丁をふるう。そこが、作家と詩人のちがいなのかもしれないなあ。