2017年7月27日木曜日

第8回「LUNCH POEMS@DOKKYO」開催!




前回、第7回の三角みづ紀さんにつづき、今回のLUNCH POEMS@DOKKYO
は、空蓮房詩個展でも共演したアメリカ女性詩人Judy Halebsky ジュディ・ハレスキさんにご出演いただいた。

獨協大学の海外留学生やアメリカからもお客さんがきてくださり、会場はにぎわいをみせた。アメリカ西海岸はサンフランシスコ対岸の街、オークランドからきたジュディは、生まれはカナダ。移民、というより、移住者というニュアンスかもしれないけれど、ここから、すでに彼女のアイデンティティは複雑性をおびてゆく。もちろん、彼女の詩も。

ジュディの詩を翻訳し、発言や詩人への質問を通訳してくれたのは、獨協大学大学院生の二宮豊さん。約一月、ジュディに質問をくりかえしながら、詩を訳してきたという。そのおかけで、二宮さんによる詩の和訳は、耳で聴くだけでも充分楽しめた。お客さんたちや学生さんたちも、そうだったようだ。

松尾芭蕉や能、李白をはじめ、古今東西の文化によって織りなされてゆくジュディの詩は、実験的で、複雑かつ複層的な詩だ。本来は、難解、といっても過言ではない。けれど、読者の共感を確実にさそい、こころに響く詩になっている。それは、彼女の詩の言葉が、観念ではなく物であり、生をけっして手放さないからだと思う。だから、大学生たちも、真剣に耳をすましてゆく。

ですから、動画がアップされた折は、詩人の声と朗読そのものを、ぜひ、味わってみてください。獨協大学原ゼミホームページ内の、LUNCH POEMS@DOKKYOコーナーに、これから、学生さんたちによるレポートも掲載されると思います。イベントの詳細は、こちらもお読みください。


ちなみに、いま、実行委員会の学生さんたちが、公式ホームページを作製しています。9月にはできる、かな?

なごやかに会が終わったあとは、プランナーでもある原成吉先生のおごりで、ワインと、イタリア料理で乾杯。ダンスパフォーマーで身体表現の研究者でもある原南さんもくわわり、マース・カニングハムや世阿弥の話で盛り上がる。

この回で、今年前期のLUNCH POEMS@DOKKYO」は無事終了。次回は、後期、10月のスタートです。ジュディさん、二宮さん、実行委員会のみなさん、原先生、獨協大学のみなさま、ありがとうございました。

そして、なにより、公開収録イベントにおこしくださったみなさま、webでご覧のみなさまに、お礼を。


これからも、応援をよろしくお願いいたします。

2017年7月22日土曜日

『星座』と『今日の宿題』





かまくら春秋社刊行の詩歌文芸誌『星座』 号に、詩作品「神迎え」が掲載されました。

吉野晃希男氏による、詩世界と美しく呼応するイラストが、作品とともに見開きいっぱいにおどっています。光栄、かつ、うれしいかぎりです。まだ、はっきりとはいえないけれど、「神迎え」は、新連作詩の第一篇となるかもしれない。その出発を、『星座』があたえてくださった。

もう、ひとつ。イベントなのでお世話になってきた、下北沢のとってもヒップな書店「B&B」から、ユニークなアンソロジーが刊行。『今日の宿題 Rethink Book編』というタイトルで、文学にかぎらず各界のフロントランナーたちが、「宿題」をだすという本。ただし、解答も提出期限もない、不思議な宿題たちだ。平松洋子さんも、書かれている。プロフェショナルたちが綴る、日々の哲学的断章集の趣もある。

半生において宿題なぞ、まともに提出したことがないぼくも、書かせていただきました。子どものころに、あまりに、宿題をやってこなかったから、大人になったいま、〆切に追われる生活なのかもしれない。装幀もカッコいいですね。

ご紹介するのが、かなり、遅くなってしまいました。

ぜひ、お手にとってご覧ください。

2017年7月14日金曜日

鯨井謙太郒「桃」を観にゆく





7月8日の夜、「神楽坂セッションハウス」で上演された、鯨井謙太郒氏構成・演出・振付の新作コレオグラフ「桃」を観にゆく。カリフォルニアはオークランドから来日中の女性詩人、ジュディ・ハレスキさんを誘って。

出演は、定方まこと(音・ピアノも)、大倉摩矢子、四戸由香、桃澤ソノコ、鯨井謙太郒さんの各氏。

吉岡実の短詩「桃」(『静かな家』)を基底にししている、と、鯨井さんから教わっていた。現代暗黒舞踏の開祖・土方巽と現代詩人・吉岡実をむすんだ、桃、という果実。期待はいっそう高まった。

出演した踊り手たちは、全員が、ブラック&ホワイトのジャケットやワンピースに装われて登場。舞踏、モダンダンス、オイリュトミーが、並列的に、同時多発的に展開してゆく。ときには、床にたおれ、ねころぶ身体たちが烈しく手足をけいれんさせるなどの動きで同期する。

けれども、諸動作を同一平面に織りあげようとするのは、意外にも、踊り手たちがかいま見せる表情、とある顔の体制だ。それは、いまを、不確実な放心、あるいは悦楽のうちに生き延びようとする人間たちの、孤独な顔に思えた。


ぼくは、鯨井さんたちのダンス(四戸さんの、あの機械人形的ブレイクダンスは、速度、鋭利さ、さらに磨きがかかっていた)のみならず、コレオグラフ自体に触発された。鯨井さんたちの「桃」は、吉岡実の聖と俗、具象と観念が猥雑かつ絢爛に球体化する言語宇宙の、たんなる再現ではない。鯨井さんが踊った、詩中の「老人」を思わせるホームレスは登場したけれど。むしろ、鯨井さんたちは、「桃」やモダニズムの言語宇宙を貫通しながら、いま、ここに危うく息づく肉体と生の光と闇、その仄暗い敷闇にそって舵をきった。「桃がゆっくり回転する/そのうしろ走るマラソン選手」のように。そんな現代的な感性にも、ぼくは、共感をおぼえたのだった。