2018年6月30日土曜日

読売新聞に詩が掲載



  6/29の読売新聞夕刊に詩が掲載されました。

 詩作品は、近刊の、ジャズと対話する連作詩集『Asian Dream』(仮題)に収められる最後の一篇。タイトルは「Talking’ Loud Sayin’ Nothing」。ご存知、ファンクの帝王とよばれるソウル・シンガー、ジェームス・ブラウンの名曲で、詩は、JBの曲とインタープレイすることを希って書かれています。

 でも、ぼくの耳のなかを流れていたのは、JBのオリジナルヴァージョンではなく、リヴィング・カラーのアルバム「ビスケット」に収録されているカヴァーバージョンのほう。ぼくは、ずっと、ジミ・ヘンドリックスの音楽的な嫡子、ギタリストのヴァーノン・リードのファンでして。下記にYouTubeへのリンクをしておきます。


 詩篇Talking’ Loud Sayin’ Nothing」は、ぼく自身にとっても特殊な作品。じつは、読売新聞文化欄担当のMさんから、「日大アメフト事件」についての詩を、という願いから書かれた詩なのだ。
通常、記者さんや編集者さんが詩を依頼する場合、テーマについては詩人に一任する。ぼくも、最初はMさんからの異例の依頼にとまどいをおぼえた。しかし、Mさんの想いのこもったメールを読むうち、挑んでみたくなったのだった。もちろん、『Asian Dream』のモティーフでもあるアメリカ西海岸のブラック・タウン、オークランドの記憶もかさねられている。

お読みいただければ、うれしいです。

2018年6月21日木曜日

空蓮房「形相」展へ



 昨年の六月、一月にわたってぼくの詩個展を開催していただいた蔵前のギャラリー「空蓮房」で、新個展が開催しています。
 アメリカを中心に活躍されている写真家・兼子裕代氏による個展で、タイトルは「形相-Appearance-」。個展の詳細は、下記、空蓮房ホームページからお読みください。

http://www.kurenboh.com/jp/show.html

 ぼくも、さっそく、観てきた。

  形相とは、古代ギリシア哲学にいう森羅万象の表れ、顕現(エートス)でもあるが、展示はまさに形相(ぎょうそう)、人の顔、心身の表情をとらえた写真作品でもある。

 ギャラリー「空蓮房」は一回につき一名しか入場できない。茶室のような、繭の白い内面のような空間で、観客は独りで作品とむきあい鑑賞(観照)するというのがギャラリーの趣旨だが、今回の展示も、まさに空蓮房だから顕現した時空間、心の世界ではないだろうか。

 空蓮房に入房すると、一方の壁面に、哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉、「『顔』は、神の言葉が宿る場所である」と書かれてある。ぼくらは、独り、兼子氏の撮影した見ず知らずの他人の顔と対面しつづけるのだが、それらの「顔」は、ときに刮目し、瞑目しつつも、なにかの言葉を発する手前のような表情をうかべている。

 他者と対面する静寂を奏でるのは、兼子裕代の写真作品であり空蓮房であり観る者の心鏡でもある。写真をまえに、時とともに音がうつろい、光線が翳り、肌がちがう温みを感じとる。トランプ政権や安倍政権をはじめ世界的に保守・右傾化の兆候がみられ、人種差別が横行し、政治的にも危機的ないまという時代。レヴィナスの言葉を経過して、ぼくは、見知らぬ他者と他者が写真という隔たりのうちに顔をあわせる静謐を体感している。

 言葉で語れるのは、ここまで。なんどでも通わないとその深みを味わえない、いい展示でしたよ。ぜひ。


2018年6月14日木曜日

北村宗介個展「包容ー線と線」へ

 


  昨年のいまごろ、蔵前のギャラリー「空蓮房」でぼくの詩の個展が開催された。
 そのとき、共創作していただいた書家・北村宗介さんが、神楽坂のギャラリー「五感肆 パレアナ」で個展を開催されるという。先日、静岡でも個展を開催されたというお知らせをいただいたばかり。ちょうど、神楽坂に出向きもあったので、早速、うかがってみた。

 北村さんは不在だったものの、作品たちに出迎えられ、かなりの長時間をパレアナさんですごさせていただいた。

 今回の個展は、上写真の「華」(448mm X 300mm)のように、一見、アブストラクトな書が数点、ほかにミックストメディアにも映る連作から構成されていた。伝統的な楷書、行書、草書などはほとんど見あたらない。
 わ紙葉書と思しき紙のおもてをさらに白くペイントし、その表面に墨で揮毫した連作群は、「風起」、「風の交差点」、「風径」、「風の後姿」などのタイトルが付されてい、すべて「風」をモティーフに書かれているようだ。なかには、古本をつつでいたかの黄ばんだパラフィン紙や、スコッチテープなども貼ってコラージュした書作品もある。

 でも、今回の北村宗介の作品は、いわゆるアブストラクト書やアートと架橋する書作品といった類のものではないと、ぼくは思う。
 「風」連作群のはじまりには、三つの「風」一文字が置かれていた。草書体の「風」が置かれ、そのつぎの「風」で字はさらにくずれゆき、三文字目ではいっそうアブストラクティフになり「風」の字が抽象化される過程がわかるよう展示されていた。つまり、北村宗介の書は、既成の書体、一般的な記号=文字としての漢字に、より深くダイブし、書字の内奥に折り畳まれていた潜在性を開きひろげる試みではないか。
 すると、いままで記号の体制下にあった字の内奥に風が吹きはじめ、さらにどこか遠くへ吹き渡ってゆく。観るぼくらのことも、どこかへ運び去ってしまいながら。よって、北村宗介の書はあくまで書であって、書字のアブストラクションやアートとの境界性を問うものではないように、ぼくには見受けられた。

 北村宗介さんの揮毫は、字に深く潜行すればするほど、その奥底に自由を見いだしてゆく。まだまだ、書くべきことはあるのだけれど、この個展については別誌にレビューを書く予定なので、いったん、ペンを擱くとします。

 ギャラリーを辞去する際、ぼくも、風の連作群の一点を購めることにした。
 ぼくがえらんだのは「風聲」という書作品。会期が終了次第、自宅に郵送してくださるそう。届いたら、本ブログでも紹介したい。

 早くこないかなと、見沼で風をまっている。

2018年6月7日木曜日

チーム・ランチポエムズ「埼玉詩祭2018」出演!


チーム・ランチポエムズは、左から田上友也、二宮豊、田澤敬哉各氏。
つづいて、MIREさん。右から三番目が、中里りさ氏。


石田瑞穂 写真は中里りささん提供(C)

 去る6/2、埼玉県桶川市にある埼玉文学館ホールで開催された「埼玉詩祭2018」。埼玉詩人会が主催するこの会は、埼玉出身および在住で、長年にわたり優れた詩業を紡いでこられた詩人を顕揚する会でもある。

 当日は、神保光太郎、宮澤章二など、埼玉の小中学校にかよった子どもならいちどはその唱歌をうたったことのある郷里の詩人たちをめぐるディスカッションがあったり、オーセンティクながら、旧大宮市出身のぼくにとって魅力あるプログラムが組まれていた。なんせ、ぼくの出身小学校であり、いまも詩を教えたり顔をだしている芝川小学校の校歌は、「風と反骨の詩人」宮澤章二氏の作詞なのだから。

 さておき、おなじ埼玉県草加市にある獨協大学のプロジェクト、ご存知「LUNCH POEMS @DOKKYO」昨年の実行委員の大学院生と卒業生が、この会にお招きいただいた。埼玉詩人会の北畑光男さん、林哲也さん、秋山公哉さんという、やはり、同郷の大先輩詩人の方々からのお誘い。伊奈学園の高校生たちも、自作の詩をひっさげ、じつに立派にリーディングされた(あまりお話する時間がなくて、とても残念!)。

 ぼくら、チーム・ランチポエムズは、卒業と同時に第一詩集をオフセット出版した、田上友也、田澤敬哉、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズを研究する二宮豊、紅一点の中里りさ各氏。田澤氏は、できあがったばかりの第一詩集『パーラー』を持参し、献本してくれた(この詩集については、後日、紹介します)。そして、いま講義をしているフェリス女学院大学一年生にして現役の声優、MIREさん(仮称。彼女は所属事務所の事情でカメオ出演です)。
 ランチポエムズのメンバーは、二年以上、アメリカや日本の現代詩を読みこむのみならず、詩を実作してきた。よって、学生の手習いというレベルではなく、詩を志す一詩人の言葉を紡ぎはじめている。たぶん、初めて詩を書いたMIREさんの詩も、言語センスはさすがというか、いまの十代の言葉の瑞々しいエッジがひしひしと伝わってくる作品でした。

 ランチポエムズの朗読は、タイミングも声もしっかりしていて、けっこう、うまかったなあ。観客も多く、緊張されたと思うけれど、堂々としたリーディングでした。やっぱり、二年間、プロの朗読を間近で観て聴いてきたことはある。
 MIREさんの朗読は、可憐ながら凛として、それでもホールに澄んだ声の一語一語がしっかりとおって響く。さすが、プロ、と感心。来年、リブートするランチポエムズにも出演してくれないかしらん。あくまで蛇足ですが、ぼくも読ませていただきました。

 「埼玉詩祭2018」関係者のみなさま、埼玉詩人会と観客のみなさま、学生・卒業生にチャンスを与えてくださり、心からお礼を申し上げます。

 イベントのあと、ぼくらチーム・ランチポエムズとMIREさんは、大宮駅ちかくの大宮市場直卸焼肉店(よって、安く、非常に旨い)「万里」へ。まずは、ビールで乾杯。飲み放題、食べ放題だったのだけれど、そこは若者、みなさん、信じられないくらい食べた。ポエトリー・マガジンやトーキョー・ポエケットにも挑みたいと意欲を燃やす、チーム・ランチポエムズ。酔っぱらいはじめたぼくは、「朗読バンド、やろうぜ!」と、いつものように後先考えず気焔をあげた(笑)。ほんとうにやるんだろうなあ。また、新プロジェクトの誕生である(笑)。

 とにかく、充実した詩の一日だった。

2018年6月4日月曜日

六月のホームページ



  六月のホームページのデザインを更新していただきました。

 梅雨、ということで、紫陽花。ベタなのだけれど、暗く湿っぽい月の扉が、いままででいちばん華やかな気がします。

 アート作品は、2016年10月に惜しくも他界された画家・堀越千秋氏のエッチング。ぼくも書かせていただいたことのある『週間朝日』の人気連載コラム「美を見て死ね」の筆者としても知られていて、愛読されていた方もおおいと思う。

 ぼくがもっている版画は、1990年代前半の作品。晩年のワイルドな画風からは遠いけれど、端正ながら強烈な色彩、勢いのあるタッチは健在だ。ぼくがこのエッチングを購入したとき、画家堀越千秋はいまほど有名ではなかった。佐谷画廊で、この作品が気に入り、オーナーに購入を申し入れると、ぼさぼさの髪でよれよれのシャツを着た画家がにっこり破顔し、大きな手で握手してくれたものだ。

 小品でもあるし、代金はいまとくらべさほど高価ではなかったと思う。また、当時は20代だったぼくの姿を見て、値引きもしてくれた。

 パワーをもらえるからか、この季節、書斎に飾られることのおおい作品です。
 
 画家の思い出に。



 さておき。去る6月2日、埼玉文学館で開催された「埼玉詩祭2018」に、昨年の獨協大学「LUNCH POEMS@DOKKYO」実行委員会メンバーとフェリス女学院大学の学生さんとで、出演しました。

 このお話は、また、次回。

 ぜひ、お楽しみに。

2018年6月2日土曜日

「アメリ」での誕生日






 先日、妻とぼくの誕生日のお祝いに、浦和の名フレンチ「アメリ」さんにいった。あの映画『アメリ』をイメージした、小体だが、とても瀟洒なレストラン。お料理はオーソドックスなフレンチを基に、けばけばしくない範囲でかならず新鮮な変化をくわえてくる。お味は都内の有名店レベルだが、お値段は、リーゾナブルだ。ヨーロッパの街には、こうしたセンスがよくて入りやすくて美味しい、人気の隠れレストランが石の壁のむこうにひとつやふたつはある。そんなお店が、浦和にあるのが、うれしい。

 さて、当日は、フランスはボルドーの友人、エティエンヌさんとルチルさんからいただいたワインを持参。ボルドーの銘醸地Chateau Pierrail2012年、スプリエール・コントワレ(特級)。味も馨も繊細さを秘めつつ、超重厚かつ超芳醇。これぞ、フルボディ、といったいかにもボルドーらしい赤だ。シャトー・ラトゥールで働くルチルさんがえらんだワインだが、いわく、2012年のスプリエールは、地元ボルドーのワイン業者のあいだでも大変話題になったのだとか。

 アメリさんでは、ワインにあわせたコースを頼む。まず、シャンパーニュで乾杯。おなじ月生まれの妻と、おたがいの誕生日を祝う。
 ぼくのほうは、前菜につづき、若鮎のコンフィ。持ち込んだボトルにかえ、魚料理がマスのポワレ、肉料理がマグレ鴨のロースト、デゼール二皿。マグレ鴨は、フォアグラ用の鴨で、とても上質な脂がのっている。ゆえに味もかなり濃厚。鴨を食べやすくするため、アメリさんではレッドソースのベースにレモンをつかっているのだとか。ここらあたり、アメリさんらしいアレンジ。
 ところが、このマグレ鴨をしも、ワインのほうがまだまだ味香の余白、振り幅がある。果たして、このあまりにストロングなボルドー・ルージュに拮抗できる肉料理は、あるのだろうか。芳醇な味香のせいか、ワインを呑む妻のテンションも、なんだか、おかしい。これは、本場ボルドーのジビエくらいでないと、マリアージュにはならないのかも。よし、また、ボルドーにいくぞ。

 などと、大変、愉しくディナーをいただいた。いいお酒だったから、ボトルを一本あけても、じぶんが酔っていることに気づかないほど気分よく酔えた。お料理も、ヘヴィなポーションを感じさせず美味しかった。

 でも、帰宅しても、あまりにお腹がいっぱいで、眠れない。未読のまま書架にあった青山文平氏の時代小説『春山行き』を一冊読み了えるころ、やっと、まぶたが重くなりはじめたのだった。