2021年3月21日日曜日

桜と春の酒器と





 

庭の古樹しだれ桜が、例年より10日もはやく開花し、春彼岸の中日には、あれよあれよというまに満開。

 

春の酒器をだすまえに、春が去ってしまいそうなので、いそいそと春の盃と徳利を桐箱からとりだした。

 

徳利は、骨董ではなく、古山子こと小山冨士夫作。陶工直筆の箱書には「黒地白釉紋徳利」とある。骨董ではないと書いたけれど、半世紀以上前に焼かれた徳利だ。高さは15センチ、径は9センチ。おおぶりの徳利で、酒は2合半はいる。ぼくの晩酌にはちょうどいい酒量だ。胴の所々がふっくらとゆがんでい、口のひらきがおおらかで、成人男性のひとさし指がちょうど一本はいるくらい。

 

底には、白釉紋で古山子と彫ってある。底部から腰にかけて指痕がそのまま残されていて、陶工の指先の息吹が伝わる。釉調は画像だと黒光りしているが、実物の鉄釉は酒を吸ってしっとりとしてい、古作の手摺れ感がよく再現されている。写真では再現できない、自然の象る色味だ。掌のうえで徳利の肌を撫でていると、胴の微妙な起伏とあいまって、さわり心地が好い。

 

輪線もかなりモダンな印象だが、さすがは本歌を愛し研究した小山冨士夫。骨董の盃とあわせてもおもったほど違和感がないのだ。どっしりとおおらかな作行だが、記したように育ち方から使い心地まで細やかに計算されている。酒豪で鳴らした小山冨士夫は酒器づくりが巧い。おおいに酒徒好きのする徳利である。

 

あわせた盃は、冬からつかっている龍泉窯南宋青磁盃(右)、そして、拙ブログ初登場になる古萩七化盃(左)。伝世品の完器。共箱には「江戸時代作」と書かれている。

 

七化、とは、最上の陶土は吸水性が高く、酒を注ぎつづけることで色味が急流のように変化してしまい、育つというよりは文字通り「化ける」器のことをいう。

この盃の土は大道土らしく、高台の内側はなめらかな白。たぶん、焼成時は、雪色をめざした盃だったのだろう。けれども、写真のごとく、永い歳月にわたり酒を注がれることで元の色肌に帰れないほど変化してしまい、現在は花曇りに観る桜花の色彩に変化している。いわば、旅する盃、失郷の盃である。

箱の蓋裏には墨字で「早蕨」という銘があり、いまの色調ともまた異なっていたことが察される。うまい銘だ。ちなみに、ぼくはこの盃を「流桜」と仮銘して遊ぶ。

 

 春は気分がゆるやかになり、酒器もおおらかなものが好もしいが、早春にぴったりの盃だとはおもう。けだし、古山子の徳利とあわせるには、なにかがたりない。

 

 この徳利とあわせるなら、もっと素直で、自然の雄大さを感じさせる盃がほしい。希わくば、桃山時代の無地志野盃。しかも、ややおおぶりで口径がひろくあき、肌は人肌色に焼きあがった作が好もしい。まあ、ぼくにとって、そんな名器は夢幻にすぎないが…その夢の盃と古山子の徳利なら、理想の酒器のひとつとなるだろう。

 

 夢と桜を愛でつつ、昼から花見酒を愉しんだ。

2021年3月14日日曜日

鬼怒川への旅と蓮田の一夜




  

 東日本大震災から十年の311日、ぼくは、鬼怒川金谷ホテルの仕事で栃木県の鬼怒川へ。サイレンが鳴ったときは、国際ポエトリーサイトの制作準備でもお世話になっているデザインカンパニー、stoopaの池田龍平さん、写真家の砺波周平さんとともに、帰宅途中のちいさな食堂で黙祷を捧げた。

 

 ぼく自身は、東日本大震災十周年について、日本現代詩歌文学館の記念アンソロジーへの作品寄稿やエッセイなどで、いまできる応答をこころみた。

 

 あらためて、震災の犠牲者の方々に哀悼の意を表したい。

 

 おふたりと別れてからは、ぼくは、蓮田駅で下車。おなじく蓮田の神亀酒造の社長さんから薦められた、住宅街に佇む手打蕎麦やさんへ。店名は明かさない。

 

 夕方の早い時間だったが、夕食をすませるために春野菜の天ぷらと、この辺では珍しい十割そば、そしてお銚子を一本たのむ。

天ぷらはいうにおよばず、社長も推輓の十割そばが、まったくざらつかず、ふくよかな蕎麦粉の香がして、逸品だった。女将さんに味を褒めていると、蕎麦やのご夫婦は被災後、福島から蓮田にきて店をひらいたという。 

そうか、これは会津十割そばだったのか。

 

 ほかにお客さんはいなかったから、「もう十年になるんですねえ」と語る女将さんに酌をしてもらいつつ、肴は店主のおまかせで呑みなおした。酒は、福島は宮泉銘醸の寫楽。女将さんから、この十年の話をうかがっていると、店主が「よろしければ、どうぞ」と、福島の鰊山椒をだしてくれた。

 

 冒頭でも書いた国際ポエトリーサイトは、東日本大震災十周年の年にオープンしたいとずっと考えていた。前へ進むことが、ぼくの精一杯の詩的応答であり、最善だと思うから。

 

 物想いに耽りつつ、分院里の盃をあげていたら、緊急事態宣言中の閉店時間、八時にちかづいた。〆に十割そばを、もう一枚。偶然はいったお店だったけれど、店主と女将さんのおかげで福島を身近に感じた。

 

 コロナ次第だけれど、初夏には、左右社WEBで連載中の「詩への旅」の取材も兼ね、草野心平さんの幻影をおってふたたび福島を音ずれたいと考えている。

2021年3月6日土曜日

下諏訪への旅、万治の石仏




 

 下諏訪の名湯宿「みなとや」さんで、さいごに絹乃湯で朝風呂にゆったりと浸かり、麦粥、山菜煮、湯豆腐、〆は信州味噌の風味が香ばしい焼きおにぎりの朝食。朝の光がのこるうちに出立。

 

 下諏訪の歴史ある街並をながめ散策しながら、諏訪大社下社春宮へ。凛とした社の気配を満喫し、コロナ平癒や家族の健康を祈願する。


 秋宮へも詣でるまえに、ちょっと、寄り道したいところがあった。

 

 下諏訪の名所にもなっている「万治の石仏」である(写真をご覧ください)。みなとやさんの常連だった、画家の岡本太郎がとても愛好していて、下諏訪にくるとかならず参拝したという。


 春宮境内の傍の草地に、ぽつんと坐す石の阿弥陀如来像は、たしかに唯一無二の前衛的なフォルムをしていらっしゃる。岡本太郎が感嘆したのもうなずけた。とまれ、その表情はじつに自然でやさしく、あふれる慈悲を感じる。


このアミダさまを左右左で廻り合掌すると、万事(万治)どんな病でも癒してくださるという。阿弥陀如来根本陀羅尼を胸中暗唱しつつ、家族の健康とコロナ退散を祈願した。

 

拙ブログをお読みのみなさまの長寿と健康をお祈りして、今回、石仏のお姿を掲載します。お守りにどうぞ。

2021年3月3日水曜日

下諏訪への旅、名湯宿みなとや




 

 注目の日本酒「七賢」の執筆仕事で山梨銘醸を訪ねたあと、ひさしぶりの休暇で下諏訪へ。

 

 おめあては、小林秀雄や白洲正子夫妻、岡本太郎などが好んでかよった老舗温泉旅館「みなとや」さんに宿泊すること。七賢の仕事でもご一緒するデザインカンパニーStoopaさんの勧めもあって。ふだんから一日三組しか客をとらないが、コロナ禍以後は一日一組しか宿泊できない。宿は木造二階建て。田舎の祖父母の家をなつかしく思い出す心地好さ。ぼくしか泊まらないのに、お部屋はもちろんのこと、玄関から階段までぴかぴかに磨かれおり迎え支度は徹底されていた。

 

 風呂は中庭の外湯のみ。お湯は下諏訪でも絹乃湯といわれる、上質の天然温泉。湯槽には白玉石が敷かれてい、雪化粧の庭を眺めながら、ここ半年の疲れをじっくりと癒す。

 

 湯のあとは、新鶴屋の和菓子とお茶で一服、仮眠。

 

 聴きしの夕食も、すばらしかった。古伊万里に盛られたのは、下諏訪の郷土料理。女将さん謹製、諏訪湖のワカサギの煮付けは新鮮でとろっと舌上でほどけるよう。桜肉の刺身も、これほど新鮮な馬肉は初めて。臭みはまったくなく、透明感のある旨味。諏訪湖鶴の升酒がすすんで仕方がない。メインは、すき焼きともいえそうな桜鍋。甘めの信州味噌と太くて甘い下諏訪葱が、とろりとした馬肉とあいまって、升酒をさらにおかわり。

 

温泉と前夜の桜肉が効いたのか、夜明け前に目が冴えてしまう。炬燵にはいりツバメ印のノオトに銀軸のボールペンで詩を書く。夕飯はお腹いっぱい食べたが、朝風呂のあとの、朝食の麦雑炊、焼きおにぎりも絶品でぺろりといただいた。

食事処の壁には、大晦日から正月にかけて句会で滞在した高浜虚子の直筆色紙が、惜し気無くかけてあった。先代のみなとや主が、俳句も嗜む数寄者だったとか。

 

刻を聞き年を忘れて炬燵守る

 

 そんな虚子の句がぴったりの、みたされた滞在だった。