2020年5月19日火曜日

原成吉著『アメリカ現代詩入門』を読む



 新型コロナ対策で、ぼくが教えている大学やカルチャースクールでも完全オンライン講義が実施されている。コンピュータがぜんぜんダメなぼくも、教務課の職員さんに教えていただきながらズームとメールを併用している。
 ところが…、話題のズームは、どうしても不完全なコミュニケーションツールだから、事後処理や補完のための仕事が雪だるま式にふくれあがる始末。コミュニケーションも一方通行になりがちで、「ないよりはまし」が、ぼくのズームへの評価かなあ。むしろ、シンプルに、メールだけのほうが、学生さんたちとの文通にも似て、詩という複雑にして繊細な文芸を教えるには適しているとおもう。言葉の力はやはりすごい。不幸中の幸いで、ぼくにはウェブ連載と著書があり、それらを活用してなんとかのりきろうとしている。
ぼくは会社員や公務員のテレワーク化にかんしては推進派なのだが、こと講義となると、リアルのほうが圧倒的に情報伝達力も交感力もすぐれていると痛感せざるをえない。今回のコロナ禍からは、いろいろなことを学んでいる気がする。

そんな事情もあって、ブログの更新がおくれてしまいました。

さて、オンライン講義についてモヤモヤ感をぬぐえないぼくが、くりかえし読みかえしている本がある。アメリカ近現代詩研究が専門で獨協大学教授の原成吉先生が著された『アメリカ現代詩入門 エズラ・パウンドからボブ・ディランまで』(勉誠出版)です。
 書名があらわす多彩で幅広い射程も魅力だが、本書の特長は、パウンドやウィリアム・カーロス・ウィリアムズなどのモダニズム詩をアメリカ詩の「第一世代」、チャールズ・オルソンら第二次世界大戦後の詩を「第二世代」、アレン・ギンズバーグらビート・ジェネレーション以降の詩を「第三世代」とした切り口。ウォルト・ホイットマンやロバート・フロストからはじまるアメリカ詩史から脱却した観点にある。ヨーロッパ古典詩の定型韻律ではなく、アメリカ独自の口語と事物を種に「固有の詩形、実験的なラインブレイク」を咲かせてきたのが、アメリカの近現代詩。その進展と分岐を、原先生はアメリカ詩史を物語る原理とした。


 たとえば、ウィリアムズ。ロンドン、イタリアへと渡り「モダニズムの興行師」となったパウンドとは対照的に、ウィリアムズはニュージャージー州ラザフォードで開業医をいとなみながら「アメリカ土着のモダニズム」を探求しつづけた。左記にふれた本書の概要は、ぼくにはウィリアムズのなした詩業そのものにも聴こえる。
欧州芸術と世界史から糸を紡ぎ〈引喩と虚構〉の詩を巧みに織りなすパウンドにたいし、ウィリアムズはアメリカを虚構ではなく言葉の種子、詩の第一質料にした。アメリカという種子が孕む多彩かつ膨大な他者や事物たちが織りなす日常を、ウィリアムズはいっさい排除することなく、新しい詩的言語によりポエジーが成立する特異な強度へとくみかえる。それにより、観念ではなくリアルによってつねに生成し変化する詩を書いた。そう、本書のすぐれた帯文が語るように「『いま、ここ』にあるすべてをうたう」アメリカの詩は、ウィリアムズからはじまったのだ。
アメリカが種子であるなら、ウィリアズの詩は胚葉体。個体化する多様体であり、自己の境界を自己が創りだしてゆく複雑怪奇な自己生成系の詩である。…これ以上、書きつづけると論考になってしまうので、ペンを留めよう。ぼくも、いつか、じぶんのウィリアムズ論をものしてみたいのだ。

なにより、原先生の言葉は、とても平易でやわらかい。何年も講義やゼミで練成し、学生に語りかけてきた言葉で書いてあるから。ところで、原先生はぼくにこんな話をしてくれたことがある。先生が書かれた文章や訳された詩は、発表前にかならず奥様に聴いていただき、その感想を参考に朱筆をいれてゆくのだと。
まるで、ウィリアムズと妻フロッシーのようではないか。

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