2021年8月28日土曜日

桃山の木葉

 

 

新型コロナの緊急事態宣言もかさなり、家呑みの時間をすこしでもうるおうものにしようと、古玩も、食器をもとめることがおおくなった。

 

 前回、ややフライング気味に登場してしまったが、初夏の目白コレクションに出展していた京橋〈奈々八〉から、桃山時代〜江戸時代初期の古絵志野木葉皿をゆずりうけていた。

 

 北大路魯山人がこれと同手を本歌にし、染付に詠み変えて木葉皿をつくっていたようだ。

 

 紅葉図は桃山文化の代表的な意匠。ぼくの古絵志野木葉皿も、骨太の型押造形、自然釉にちかい釉調にすっと鉄絵の葉脈が描かれる。この手の模範的な作行だろう。流れるような灰釉の潮も、そこに飛び散った鉄絵も、美事。もとは五客か六客一揃だったのが散逸したのだろう。共箱は魯山人とも所縁ある黒田陶苑の作、前代はコレクターが所有。大変コンディションの佳い完器だ。

 

全体の色彩は紅葉というより朽葉色だが、そこが侘びており、じつにいい。魚の脂や炊物の出汁を吸うと、土味に紅い光が射すのが、これまた、なんとも。

 

 魚が美味くなる秋冬の酒肴を盛るのに好適なのだ。

2021年8月18日水曜日

小田原小旅



 


 ひさしぶりに妻とでかけた。行き先は小田原。最寄駅から新幹線で一時間である。

 

 ただ、海を眺め、美味い魚で呑み、温泉につかるだけの休暇。観光はいっさいしない。

 

ぎりぎり非常事態宣言まえだったので、缶ビールを車内で飲んでいたら、あっというまに小田原駅についてしまう。スピーディすぎて、旅の情緒がないなあ。こんどから、湘南新宿ラインにしよう。

 

さっそく、浦和の食通から教わった駅近くの鮨や〈潮り〉へ。相模湾の新鮮な近海魚を握ってもらう。まずは生しらすで乾杯。金目鯛、鰹、本鮪などをいただいてから、旬の胡麻鯖、ぼくにはめずらしいタカベ、ブダイなども握ってもらった。ランチとはいえ、ふたりで呑んで食べて八千円は高くないとおもう。

 

その日は、根府川の山あいのホテルに一泊。相模湾に沈む巨大な夕陽を眺めながら、温泉で体をほぐす。詩人田村隆一のみた魂の色彩。

 

翌日は朝風呂に二回はいり、チェックアウト。早川港から紺碧の海原を眺めたあとは、時間もあったので、小田原市街をそぞろ歩く。なんとなく御幸浜にむかっていたら、海岸へのおもしろい入口をみつけた。道路下をくぐって砂浜へでる半トンネルで、カメラのファインダーをのぞくように、矩形に海が切りとられてみえる。

 

そばには〈竜宮堂〉なんてカフェもあって。

2021年8月10日火曜日

盛夏の酒器





 また、非常事態宣言がでてしまい、立秋をすぎても、きょうなどは気温38度の猛暑日。

 

そうして家呑みがすっかり板についてしまい、同時に骨董、なかでも酒器や肴を盛る食器を入手するペースがいやましにあがる。

 

 ぼくの盛夏の酒器は、大正時代の職人の手になる江戸硝子徳利に、初源伊万里盃や南宋砧青磁盃をとりあわせ、日毎の晩酌をまかなっている。

 

 古染付とみまがう初源伊万里盃は、その名のあらわすとおり、日本人陶工の作ではないだろう。見込みのコバルトブルーにちかい釉溜や呉須の筆致もさることながら、厚ぼったい古伊万里とはちがい、繊細な花びらのように薄手の作行き。可憐に撓んだ器形も好もしい。紙なみに薄い口縁は酒雫の切れもじつによく、涼やかに呑める。

 

 青磁盃は123世紀の作。翠緑の美しい釉調にはどこかあたたか味もある。このうえなくシンプルで、シャープな器形は南宋期龍泉窯の規範となる作行きだろう。白州正子ともゆかりの文芸評論家A氏の蔵出品だそうで、まさにコロナ禍の初期に譲っていただいた盃だ。

 

あのころ、どんな予感がはたらいて、この盃を手にしたのだろう。そんな物想いにとらわれつつ、酒器は真夏のままだけれど、立秋をすぎたので、江戸時代初期の絵志野楓皿をだし、奈良の押寿司を盛って一杯呑んだ。


夏から秋へ、器の心ははや移ろいだすのだった。

2021年8月1日日曜日

うつろうかけらとしての写真 −谷口昌良写真展「写真少年1973-2011」



 

 浅草寺のある東京浅草には、かつて、星多の写真館があった。演芸のロック座やキネマの浅草名画座とともに、浅草は写真の街だった。写真が趣味でお寺の住職だった祖父からカメラを譲りうけた谷口昌良も、ごく自然に、そんな「写真少年」のひとりになった。

 ビーチボーイに憧れたクールカットの浅草モダンボーイは、詰襟の学生服にカメラを肩からさげて、吉原芸者や江ノ島の海をファインダーにおさめる。写真帖の余白に、ボヲドレエルを気取った詩を書きつけて。

 そんな「写真少年」に出逢ってみたくて、隅田川のほとりにある〈iwao gallery〉に足をはこんだ。

 「写真少年」、しかし、写真の私記性をふくめ、そのタイトルから連想されるいっさいから本展はうつろいだす。

 写真ギャラリー〈空蓮房〉を主宰する谷口昌良らしく、展示方法はユニークだ。廊内には写真作品のみならず、谷口氏が三十年以上にわたり苦闘を書き溜めた極私的なノートや昭和高度成長期を感じさせるスクラップブックの大冊が設置され、これもまた谷口氏のコレクションらしき、1980年代のウェザー・レポートやパット・メセニー・グループのLPが鳴っている。ジャコ・パストリアスのファンだという谷口氏愛蔵のフェンダー・ジャズベースも飾られていて(本人はまったく弾けないらしい)、若い観覧客はおもわぬエイティーズカルチャーとの邂逅を愉しんでいた。

 「写真少年」の黄金期でもあった、1980年代。谷口昌良は実家のお寺を遠く離れ、ニューヨークへと単身わたる。住んだマンハッタンのオンボロアパートは、貧乏ジャズミュージシャンたちの巣窟で、朝から晩までジャムセッションが鳴りやまなかったという。

 アメリカン・ニューカラーの洗礼をうけ、レオ・ルビンファインの講義にもぐりこんだ写真少年は、懸命に、写真少年から脱皮しようと日々もがいていた。

 当時のカラー作品で、とくに魅了された一点がある。

1983, Picnic in Central Park in Manhattan」。

 アナログカメラとランチ袋をもった口髭の東洋人青年とモデルなみに美しい白人女性が、こぼれるように咲く花枝のしたを、おたがいにすこし離れて、レンズへとうつむき加減に歩いてくる。視線をあわさず、べつべつに夢見るように。あらゆる意味で対照的なふたりは、谷口昌良の共通の友人かもしれない。恋人たち、といいきるには微妙な間があるが、ふたりは、時代の生む圧倒的な幸福感に浸されている。たまさか鏡像を結んだ無縁のふたりは、進行方向の右斜前へ軋むようにかしいで歩いている。それは被写人物をぎりぎりまで側近くとらえつつ、後背で雪色に咲き乱れる花木をもファインダー内におさめようとした、低めの仰角撮影の賜物であろう。

 この偶然の効果が、おもしろい。

 写真家がピントを絞ったのは、ニューヨークに春を告げるコンベントリーガーデンのマグノリアの花か、自己言及的にカメラを覗かせる青年か、はたまた、白花の袂からペルセポネーのように顕現したワンピースの娘か。

 ところが、これらすべてにピントをあわせるかの写真には、いったい、どこに焦点があるのか不明なのだ。

 まなざしは、写真の内外で情景や理解の物語を焦点として結ぼうとする。が、中心的な視座は散逸し漂泊し、写真の表面にあまねく偏在するようにみえる。ピントを欠いたものは、単一の焦点ではなく、さまざまなピントの星座、その布置関係を開示しようとしている。

 その効果によって、マグノリアの花は、あやうく闊歩する男女のうえに、かれらにとって無縁であり有縁でもあるような不思議な祝福を降らせていた。

その写真作品から、世界の春のかすかに軋んだ謳歌を聴きとるぼくはこんなことを想う。

 仏教語でもある、流行。すなわちモードと写真の蜜月はだれもが知るところだ。流行の本質たるうつろいやすさは、それがつねに最新でなくてはならないということ。けれども、ロラン・バルトが述べたように、モードにおいてはかつてのタイプが最新のものとして「神話的」に回帰する。流行という移ろいやすく虚ろな現象では、永遠に反復する神話的自然と最新の歴史的事象という思考の二極は宙吊りにされる。

 ただし、流行にもなけなしの唯物論があろう。それは、いかなる超越への追想も、変移なくしては不可能になる、という客観だ。写真という〝永遠の瞬間〟を切り撮る行為は、破壊されたものとして、もっともうつろいやすいものをつうじて現像される。自然と歴史が絡みあう瓦礫、破片としての、写真。

 アメリカン・ニューカラーは、アメリカという土壌から、写真だけに可能な新しい色彩を生みだそうとするモダニズムだった。ゆえに、そこには一点の写真を成立させる成熟した決定もあったろう。

たいして、その子ども、永遠にもがくがままの「写真少年」谷口昌良の写真展は、想念された1980年代に、写真を春のかけらのように降らせていた。

 

 

(谷口昌良写真展「写真少年1973-2011」 2021.6.17(木)ー7.4(日) 於・iwao gallery/東京蔵前)