2019年8月31日土曜日

Forrest Gander & Eiko 国立近代美術館の夕べ



 さる824日の夕方、2019年度ピューリッツァー賞詩人フォレスト・ギャンダーさんからメールをいただき、東京竹橋の国立近代美術館で開催されたダンサーのエイコさんとのコラボレーション・イベントにうかがった。
 イベントは、ギャンダーさんの最新にして日英対訳詩集『Eiko & Koma(awai books:中川映里、Matthew Chozick=訳)の刊行記念会でもあった。

 Eiko & Komaは、アメリカやヨーロッパで活動し数々の賞を受賞するなど高い評価を得ているダンス・ユニット。エイコさんは日本人女性、1970年代に渡米された。ギャンダーさんは、長年、エイコ&コマのダンスを観察し共同創作をすることで、言葉がエイコ&コマのダンスのムーヴメントそのもへ生成する、驚異的な詩集を書かれたのだ。

  とまれ、エイコさんのダンスを観ることができたのは、初めて。じつに、ゆったり、ゆっくりと、ダンスの語法からではなく、身体の内奥と会場の空気と対話するように、エイコさんはソロで踊りはじめる。
スポットライトさえない、蛍光灯に白く照らされた会場はどこか無機質で殺伐としており、肉体も装飾的な所作はいっさいない。その場を、エイコさんの肉体が観客に踊りの渦をひろげるようにして、べつの時空へと誘ってゆく。
ギャンダーさんは、そんな、エイコさんの所作をじっと観察しながら、ポスターサイズの白紙にマジックペンで、「be with」、「mother」など、簡潔な言葉をなげかけて、エイコさんのつぎの展開をじっとまつ。
詩とダンスのコラボレーションというと、その場で相互の作品を交感=交換しつつパフォーマンスする形態になりがちだ。けれど、ギャンダーさんとエイコさんの言葉とダンスのかけあいは、お互いの呼吸の内側にはいりこみ、息を待ち合わせ、ともに、どこか別の場へ踊りでようとする。
超言語的で強靭な所作もなく、超身体的で流麗な詩句もない。剥き出しの、裸の、be with、あるがままの共―場。

会場には、マリリアさんや詩人の野村喜和夫さん、永方祐樹さんをはじめ、アメリカ現代詩研究の原成吉先生、遠藤朋之先生、高橋綾子先生、小川聡子先生、山中章子先生も来場されていた。また、ギャンダーさんと詩人の吉増剛造氏の言葉をラルフ・ウォルドー・エマーソンへの応答へと織り上げた書物『裸のcommonを横切って』(小鳥遊書房)の共著者にしてアメリカ文学研究家の堀内正規先生ともお会いでき、懇話する機会をえた。

イベント後は、九段下ちかくのワインバーで、ギャンダーさんをかこんで乾杯。写真は、左から遠藤朋之先生、フォレスト・ギャンダーさん、それから、ぼく。ギャンダーさんからは事前に、日本滞在中に食事をしましょう、とのお誘いをうけていた。実現するかはわからないけれど、ギャンダーさんをふくめ、会いたかった方たち全員とお会いできたような、愉しき一夜だった。

2019年8月22日木曜日

夏のおわりに



 「シンコを食べないと私の夏はおわらない」と書いたのは、小説家山口瞳だが、ぼくの場合は、大学のレポートを採点しないと夏がおわらない。

 二百篇ちかいレポートや詩を採点しおえたある午后、東京の九段下にでかけた。おめあては、「鮨政」。いみじくも、山口瞳がシンコを食した老舗店で、とまれ、ぼくはそこでシンコを食べるのではない。コハダで、呑む。

 鮨政は、数寄屋橋次郎とならぶ江戸前鮨の名店だけれど、とみに、コハダが有名だ。鮨のシンコはコハダの稚魚をさばいて〆、しゃりのうえに五、六枚しいては握る。初鰤、初鰹などといっしょで旬の走りのネタであり、職人の技術の見せ場のようなところもある。じつは、ぼく、このシンコをすごく旨いとおもったことがない。それでも、あれば、夏の風物詩としてたのんでしまうのだが。

 とまれ、鱧のお造りからはじめて、コハダをありがたくいただいた。鮨政のコハダは、粋のよさはもとより、すこうし長めに塩をするとか。香りよく、きりっと〆られてい、脂もよくのっている。
 そういえば、鮎のうるかもそうだし、古漬けもそうだけれど、日本酒の肴にはぴりりと舌にここちよい刺激のあるものが、酒米の旨味をいっそう福よかにして、よい。香辛料のそれともちがう、和食のぴりりは、なんとも名状しがたい繊細な刺激だけれど。この、ぴりりは、鮨政のコハダにも響いていて、夏の疲れた胃腸と舌を元気づけてくれる。

 鮨をつまみながら、春夏に出逢った学生さんたちの顔をおもいうかべた。フェリス女学院大学にいたっては、二年、三年とつづけて受講する学生さんもおおく、十五週間無欠席の学生さんもけっこういて、学力、意欲、ともに高い。成績評価は、接戦につぐ接戦で、むずかしかった。

 秋からは、詩のイベントや取材旅行、大学の講義もあって、あっというまに歳末、といういつものパターンになりそう。比較的に時間のある九月は、読めずにつんであった本の山をくずし、原稿用紙の升目をうめることに専念したい。

 鮨政の暖簾をくぐって、千鳥ヶ淵へ夕涼みにでた。ビルの合間をそよぐ夜風が、やや泥臭い水の匂いをはこぶと、頭上のソメイヨシノから濃い緑が降る。東京の夜の匂い。山口瞳なら、このままホテルグランドパレスのロビーでコーヒー、というところだろう。千鳥ヶ淵の夜気をみたすように、鈴虫が鳴きだした。音だけでも、涼しさを感じはじめたころ、ぼくは、神保町のバーへと歩きだすのだった。

2019年8月15日木曜日

寫眞を観に浅草へ

 



 ユニークなフォト・ギャラリー「空蓮房」の主催者にして、写真家の谷口昌良さんと、視覚詩を共作していることは、拙ブログでご紹介したとおり。
 ことしの秋、パリのSattelite画廊で開催される「ヴィジュアル・ポエトリィ・パリ」展に、出品を予定しているのだった。

 いよいよ、製作も大詰めになってきたので、浅草遊行もかねて空蓮房を訪問することに。

 ちょうど昼時だったので、蕎麦屋で一杯、呑むことにする。独自の江戸前蕎麦を追究したことで知られる西神田の名店「一茶庵」の味を受け継いで、駒形橋、筑摩書房ちかくにうつった「蕎上人」へ。残念ながら、名物「鴨せいろ」は売り切れ。よって、石臼挽き手打ちのせいろ、ゆず切り、けし(罌粟)切りの「三色そば」で、ひや酒を二本。

 大川の舟をながめつつ、ぶらぶら、空蓮房へ。

 谷口さんから、三保の松原で撮り下ろしたばかりの新作を拝見する。眼鏡をはずし、アナログカメラで撮影した写真は、ぼくの想像をこえて、美しかった。ただただ、圧倒され、黙って、観る。すばらしい写真とコラボレーションできることに、感謝した。

 ぼくの詩原稿とつきあわせつつ、谷口さんと出展用の写真を選定。思いもよらず、豊穣な午後をすごさせていただいた。

 興奮冷めやらず、谷口さんにお連れいただき、鱧で乾杯。二時間ほど呑んで、蔵前の誇る時代小説家、青山文平氏のホームバー「BARY」で、また、二時間。ちなみに、青山氏の『鬼はもとより』サイン入り初版本を入手。近所のすてきな老舗烟草屋で葉巻を買ったり、愉しき浅草の夜をすごしたのだった。

 よいお盆をおすごしください。

2019年8月5日月曜日

郡上八幡の夏休み






所用で岐阜におもむいた折、はやめの夏休みを郡上八幡でとった。

 郡上をおとずれたのは、じつに、二年ぶり。今回も、古瀬家のみなさんにお世話になった。ちょうど、郡上踊りの中休みで、すいているのもよかった。

 ぼくは郡上八幡が大好きだ。滔々と群青の水をゆたかにおし流す吉田川。長良の名水が街のそちこちにめぐらされた用水路に水音をたてて。その清水には、錦鯉、鮎や天魚までが気持ちよさそうに泳いでいる。
 ちょうど、鮎の季節で、吉田川や小駄良川では友釣りが盛んだった。釣り人らが一列にならび、長い竿を立て、水平へときりかえす光景は郡上の夏の風物詩だ。

 マンションはおろか、現代住宅さえほとんどない、古い町屋の軒並み。
 古くからの商業の街は、文化水準も非常に高い。
 むろん、酒、食、ともに逸品がそろう。
清水のお風呂、天然温泉も、最高。

 近年、ぼくは京都や金沢より、古い町人文化の薫がのこる郡上が気に入ってる。小説家立原正秋が賞賛した鰻と長良川魚の老舗「魚虎」で、絶品、和良の鮎、直焼き鰻で一献。阿弥陀滝の水で流しそうめん。名居酒屋「大八」でも、鮎刺身コース。吉田の名水をつかう「こぼこぼ」の地エール。上田酒店が醸す、岐阜市内でも超入手困難な幻の純米樽酒「郡上踊り」も、こいつを呑みに郡上八幡に通う、といって過言ではない旨さだ。
風情あるちいさな街を歩けば、すぐに佳き酒食店にゆきあたるのが、なんともうれしい。呑み旅には、最高の土地だと思っている。

 和歌にゆかり深い郡上八幡には、釈迢空の歌集を携行して読んでいた。いま、左右社で連載中のエッセイ「詩への旅」にも、もちろん、書く予定です。