2021年6月13日日曜日

今井智己「『十年』ーA decade」を観に(2)

 


そうした連作写真にたいし、唯一額装された最後の〝作品〟が、静謐な異光を孕んでいた。

それは、今井智己がすべての作品を撮り了え、下山した瞬間に出逢った光景だったという。

全体は、一日の光がついえる直前の、仄蒼いトーン。そこはなんの変哲もない無景観の湿地で、水鏡の内側へ、枯れ葦が祈るようにたおれこんでいる。泥水からつきでた石塊や枯れ草のうえには、微光がふりそそいで、ぼくの視線にはその色彩が雪とも灰とも映った。

全体のなかでその写真だけが、明確に、構成と重量感をもっていた。

 

 写真の繭を想わせる空蓮房で、独り、今井智己の写真とむきあっていると、こんな言ノ端が降ってきた。

 光自身にもみえない光がある。

今井智己が展示に寄せた言葉−写真の記憶は「遠く深く離れていく」−とともに。

 写真は光を受胎、いや、代胎するが、光景に欠けているなにかを補い、償い、現在の犯す過ちを匡すのではない。写真はそのように存在しているそのままの光景へと移り=写り住み、その〝現像〟の最中、代替行為はみずからの主体も場所も知ることがない。

 今井智己の写真作品、あるいは光景の代胎は、あらゆる存在の独自の生起がつねにすでに共通のものである、と、震災の「十年」をこれからも抱きしめる。


(2021.3.3-4.23 東京蔵前 ギャラリー空蓮房にて展示。前回、今回ともにブログ冒頭の写真は筆者撮影の隅田川光景)

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