フェリス女学院大学での講義も、のこすところ、あと二回。今週は、同大学で創作の講義をもたれている詩人の城戸朱理さん、写真家の小野田桂子さんをたずねて鎌倉へゆく。近況や文学などの話をしながら、秀逸なレストラン・バー「クルベルキャン」で乾杯。半年間の講義の打ち上げ。それから、名高い老舗バー「マイクス」で、マイクスさん謹製のローストビーフ、ターターステーキをつまみにブルドックを呑み、歓談しつづけた。
さて、フェリス女学院大学といえば、以前から紹介したい本があった。今年の春、フェリス女学院大学教授の島村輝先生、小ヶ谷千穂先生、渡辺信二先生が『少しだけ「政治」を考えよう!』という本を刊行された。「若者が変える社会」という副題が語るように、シティズンシップ(市民権)について文学・社会学・政治学・ジェンダー学の側からわかりやすく考察し、発言した良書である。
安倍政権が日本国憲法第9条をおびやかし、改悪する動きが鮮明になったころから、島村先生らは、学内でビラをくばり関連講義をしつつ、学生たちに選挙権と市民権について啓発するアピールをおこなっていた。その成果が、本書にもあらわれている。
現在、国政選挙における20代の投票率は平均して30%代前半といわれている。ぼくと同世代の労働や教育、福祉政策に切実な意識をもたざるをえない40代でさえ、50%にとどくかどうか。それは、この国にたいする冷たい絶望感が、若者を鬻いでもいるからだろう。国政のトップである安倍政権が、涼しい顔であれだけの横暴をし、嘘と欺瞞を積みあげてのさばっているのを見れば、だれでも大人たちを信用しなくなる。国政であれ、職場であれ、権力があればなにをしてもいいということになる。かつての文学は、そうした理不尽への憤りを、言葉を武器に戦ってきた。
講義では、ぼくも、戦前と太平洋戦争期に書かれた詩を比較して解説する。戦前と戦中では、詩人たち(小説家もだが)の自由と反俗の言葉がまるで別人格が書いたとしか思えない翼賛体制、国家総力戦の言葉へと変貌した。高村光太郎、堀口大學、竹内てるよ…軍部によるメディア統制の圧力もさりながら、男女を問わず自由意志で書かれた翼賛詩もおおい。そうした豹変を目のあたりにして、たいがいの学生は呆然とする。そして、こうした翼賛詩は、後年編まれた詩人たちの全集からは、恥部として削除されることがほとんどだ。
このことは、過去だけの出来事でも、対岸の出来事でもない。いま、おこってもまったくおかしくない出来事だ。なのに、文芸誌は生き残りをかけてどんどんライトに商業的になってきている。現実を黙殺して追認し、デジタルポピュリズムにおもね、楽でファッショナブルな言葉をおいかけるのは、文学的ひきこもり現象だ。先鋭化する現実に比例して、ひたすら軟化する文学・芸術は、より若者を追いつめていく気がしてならない。
こうした現状に、ぼくも、危機感をいだく。
だから、『少しだけ「政治」を考えよう!』のような良書が、もっと読まれてほしいと願う。
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