7月8日の夜、「神楽坂セッションハウス」で上演された、鯨井謙太郒氏構成・演出・振付の新作コレオグラフ「桃」を観にゆく。カリフォルニアはオークランドから来日中の女性詩人、ジュディ・ハレスキさんを誘って。
出演は、定方まこと(音・ピアノも)、大倉摩矢子、四戸由香、桃澤ソノコ、鯨井謙太郒さんの各氏。
吉岡実の短詩「桃」(『静かな家』)を基底にししている、と、鯨井さんから教わっていた。現代暗黒舞踏の開祖・土方巽と現代詩人・吉岡実をむすんだ、桃、という果実。期待はいっそう高まった。
出演した踊り手たちは、全員が、ブラック&ホワイトのジャケットやワンピースに装われて登場。舞踏、モダンダンス、オイリュトミーが、並列的に、同時多発的に展開してゆく。ときには、床にたおれ、ねころぶ身体たちが烈しく手足をけいれんさせるなどの動きで同期する。
けれども、諸動作を同一平面に織りあげようとするのは、意外にも、踊り手たちがかいま見せる表情、とある顔の体制だ。それは、いまを、不確実な放心、あるいは悦楽のうちに生き延びようとする人間たちの、孤独な顔に思えた。
ぼくは、鯨井さんたちのダンス(四戸さんの、あの機械人形的ブレイクダンスは、速度、鋭利さ、さらに磨きがかかっていた)のみならず、コレオグラフ自体に触発された。鯨井さんたちの「桃」は、吉岡実の聖と俗、具象と観念が猥雑かつ絢爛に球体化する言語宇宙の、たんなる再現ではない。鯨井さんが踊った、詩中の「老人」を思わせるホームレスは登場したけれど。むしろ、鯨井さんたちは、「桃」やモダニズムの言語宇宙を貫通しながら、いま、ここに危うく息づく肉体と生の光と闇、その仄暗い敷闇にそって舵をきった。「桃がゆっくり回転する/そのうしろ走るマラソン選手」のように。そんな現代的な感性にも、ぼくは、共感をおぼえたのだった。
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