2017年7月7日金曜日

空蓮房詩個展、See you later!









空蓮房での個展の撤収作業を終えました。

そのあと、空蓮房のオーナー・谷口昌良さんと奥様の真由美さん、アートディレクションをしてくださった奥定泰之さんと奥様の佳代子さん、展示の設営とイベントの映像を撮影してくださった奥定正掌さんと、ちかくの小料理屋「魚熊」さんで、さいごの打ち上げ。

「魚熊」は、もとは蔵前の老舗の魚屋さん。毎朝、築地で仕入れるという。鱧の切り落とし、刺身、そして、毛蟹で、暑気払いも兼ねた。酒は、蔵元と縁のあるという群馬の地酒「光東」。鱧は、今夏、初。湯引きもいいけれど、切り落としは、こりこりと歯ごたえが、夏。この時季、関東の鱧は、関西のものよりも脂がのっているのだとか。梅の風味とあいまって、じんわりと上品な滋味が口中に吹きそよぐ。

思い思いに、展示やイベントについて語らいながら、夜が更けてゆく。

さて、ここで、ぼくが個人的にいただいた個展についての感想をご紹介させていただきます。

「詩人の個展というと原稿や本が飾ってあるのかなと思いましたが、予想しなかった展示でした。言葉を中心に詩と書と装丁家さんの作品が、空蓮房の白く狭い空間の中で響き合い、調和していました。公園から子供の声が届きます。小鳥が鳴くのが聞こえます。空蓮房の中で石田さんの詩集を読みふけり、声に出して読んでいました。ここにいると自分が言葉に包まれ、世界が音楽になって聞こえてきます。」(Tさん)

ところで、今回の個展、ぼくにはこんな感想もある。空蓮房の個展は、一回の観覧につき、ひとりのお客さんのみ入場できる。ぼくは、友人知己や、教えている学生さんなどをお誘いして、たびたび、空蓮房を音ずれた。なかには、数年ぶりに再会する友人、仕事仲間やアーティストもいる。そういった方々に、あの言葉の繭のような空蓮房で、展示を観ていただく。帰路、蔵前や浅草でひさびさにグラスを酌みかわし、来し方や近況を語りあう。すると、つくづく、人と人の出逢いや縁は、不思議なものだと思えてきた。作品と観る者の一期一会の出逢いを切実に考える空蓮房以外の場で、はたして、こうした感興を得ることはできただろうか。


そんなことを思いかえすと、空蓮房での展示やイベントは、元来、アートや文学にたいする鑑賞装置といった範疇では、とらえきれないものを秘めている。いや、もとい、そこから各々の表現の根源と現在を問いかえす、公案をあたえられるというか。


そうした、つくり手の想いとはべつに、空蓮房でひとときをすごされた方々が、すこしでもなにかを持ち帰っていただけたなら幸甚です。

長応院の山門をひらき、蔵前の街と芸術をむすびつづけている谷口昌良さん、真由美さんに、こころからお礼を述べたい。

奥定泰之さんは、展示のみならず、会期中の細々としたディレクションやイベント当日のお手伝いも、奥様とともにみずからすすんでしてくださった。そして、奥定さんの動作のひとつひとつが、どこか、本を綴じてゆく手の働きを想わせる。

奥定正掌さんと、横浜聡子さんが撮影してくださったイベントの映像は、これから韓国へ、アメリカへ、さらに、ここではないどこかへと、遠く旅してゆくだろう。

北村宗介さん、Judy Halebskyさん、鯨井謙太郒さんにも、もういちど(何度でも)、ふかい感謝を。

なにより、個展の展示とイベントにおはこびくださった、みなさまに。

ぼくは、アメリカ南部の土地と記憶を書くことを、生涯の仕事とした作家、ウィリアム・フォークナーの言葉を思いだす。

「過去は過去ですらなく、個人は個人ですらない。」

今回の個展で、ぼくはドアをひらこうとした。それは、海へとつうじる個のドアだった。ひらきつづけ、とじつづけることしかできない、なにか、なにものか。正直、答えも、終わったという実感もありません。はじまりつづける、そんな予感のほかは。

なんにせよ、蔵前のみなさま、ありがとうございました。蔵前という町が、大変、気に入りました。


こんどは、呑みに、かよいます


See you later alligator, Kuramae!

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