2019年3月27日水曜日

森澤ケン「意識の記憶」展へ



2017年6月に、個展をさせていただいた、東京は蔵前にあるユニークな写真ギャラリー「観照空蓮房」へ。写真家森澤ケン氏の個展を観にいった。
314日の、ラスト二日に観覧したのだが、もっとはやくに観にゆき、本ブログにアップすればよかったと悔やまれるほど、秀逸で刺激的な個展だった。

森澤氏は、元水泳選手。オリンピック代表候補にもなり、北島康介選手とも同期だったという。水泳を引退した森澤氏は沖縄にわたり、得意の水泳技術を活かして水中から漁師やダイバーを撮りはじめる。現在も、写真家として、漁師としても、活躍されている。

展示作品は8点のみ、すべて、モノクロームの写真。空蓮房は、時間制で、一回一名のみ入房できる。繭の内部のようなオフホワイトの房にはいるとすぐ眼にしたのは、柔らかな漆黒の背景に浮かび茫洋と遊泳するかの、女性の身体のヌード。その肉体は、闇洋に閃く、一条の白波のようにも見える。そして、水泳する男性の身体、もしくは漁師を水中から仰角で撮影した3点の連作。その向かい側の壁面に、泡立つ海洋をとらえたのか、あるいは飛沫をあげバタフライしている水泳者にも映る、なんとも判然し難い写真作品。これらは、「識」と壁面に印字されたスペースに括られている。
茶室でいう水屋のような別室の正面壁には、さきほどの女性の身体が、ほぼ同じ構図で撮影されていた。けだし、女体はあきらかに懐妊している。左手の壁には、一枚の葉の葉脈だけをレントンゲンのように銀盤撮影した作品。右手の床の間のような壁面には、轟々と水煙をたてる瀑布のモノクローム作品。

しばし、房内で独り写真作品たちとむきあい、静かに観照していると、これら水泳する身体が、まさに、「意識の記憶」のごとく、ぼくの精神に像をむすんだ。

水泳する男たちの身体が、母親の胎羊水に浮かぶ赤児に見えだす。存在も性も誰何もなく遊泳する生命が、葉脈にたどり着き、瀑布となって飛散している。懐妊の前後の時間、未生と誕生の時間も、間断なく還流しだす。このとき、「意識の記憶」は、私が私になる以前の意識=写真でもあって、不可能な記憶のように現在へと還流するだろう。哲学者西田幾多郎が「私とは主格ではなく場所である」と述べたように。個展を手がけた、空蓮房主にして写真家の谷口昌良さんは本展テキストで、森澤ケン氏の写真作品を、仏教の阿頼耶識を介して論じていた。

いつまでも、写真の羊水に身を浸しながら、意識の記憶について想いをめぐらし、感得していたい、素晴らしい個展だった。

*森澤ケン氏の写真の一部は、下記リンク、空蓮房公式ホームページでご覧になれます。

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