2019年5月9日木曜日

谷口昌良さんからの手紙



東京は蔵前にある、唯一無二といっていい、写真ギャラリー「観照空蓮房」を主宰する写真家、谷口昌良さんと視覚詩に挑んでいることは、前々回のブログで書いたとおり。

すでに、メールで九通のお手紙をいただいているのだが、空蓮房同様、じつにユニークな視覚論/写真論が語られていて、興味がつきない。というのも、谷口さんは現役の僧侶でもあって、氏の視覚論/写真論は、特異な仏語になっているから。

写真と仏教がクロスオーヴァする眼差を、氏の許可を得て、以下に引用してみたい。

無欲の光学ははかない。認識されねば物はないのか。

写真自体は何も残さない。でも、おのれは独自に存在せず、他に共有されている。

写真家の本命は怪しき実体への挑戦と言語体系を超越した存在と認識への挑戦であり、美術らしからぬ美術でもありましょう。自分は人でない、とならば人はカメラを持ち、何をしようとするのでしょうか。自分は無い、とならばその行動の根拠は何なのでしょうか。自分を見ることができないならば何をもって自分の存在を知るのでしょうか。謎の写真、謎の実体、謎の自己。

今や形となって仏教の教えは具体化されていますが、釈尊がどう悟ったかは他者がどう認め証明されたのでしょうか。縁起や無常という言葉は後世になってから生まれたものです。空や無などもそうです。形のない悟りに年月をかけながら研究されていくのでした。

自他同一の現象学とも言える写真論は縁起無常論と相まって現実と存在の問いを常に広大無辺に投げかけてくるのです。遊戯に戯れる余地ではないかもしれませんね。特に写真はその向きにおいて記憶の記号論に遊ぶのみならずより大きな問いを広げているから私には魅力を感じるのでしょうし、これが写真行動の根拠となっているのだと思っています。


 以上の引用は、氏の写真論のごく一部、ほんのさわりにすぎない。

 ぼくらの視覚とポエジーへの二人草鞋は、何処へとたどりつくのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿