昨年のいまごろ、蔵前のギャラリー「空蓮房」でぼくの詩の個展が開催された。
そのとき、共創作していただいた書家・北村宗介さんが、神楽坂のギャラリー「五感肆 パレアナ」で個展を開催されるという。先日、静岡でも個展を開催されたというお知らせをいただいたばかり。ちょうど、神楽坂に出向きもあったので、早速、うかがってみた。
北村さんは不在だったものの、作品たちに出迎えられ、かなりの長時間をパレアナさんですごさせていただいた。
今回の個展は、上写真の「華」(448mm X 300mm)のように、一見、アブストラクトな書が数点、ほかにミックストメディアにも映る連作から構成されていた。伝統的な楷書、行書、草書などはほとんど見あたらない。
わ紙葉書と思しき紙のおもてをさらに白くペイントし、その表面に墨で揮毫した連作群は、「風起」、「風の交差点」、「風径」、「風の後姿」などのタイトルが付されてい、すべて「風」をモティーフに書かれているようだ。なかには、古本をつつでいたかの黄ばんだパラフィン紙や、スコッチテープなども貼ってコラージュした書作品もある。
でも、今回の北村宗介の作品は、いわゆるアブストラクト書やアートと架橋する書作品といった類のものではないと、ぼくは思う。
「風」連作群のはじまりには、三つの「風」一文字が置かれていた。草書体の「風」が置かれ、そのつぎの「風」で字はさらにくずれゆき、三文字目ではいっそうアブストラクティフになり「風」の字が抽象化される過程がわかるよう展示されていた。つまり、北村宗介の書は、既成の書体、一般的な記号=文字としての漢字に、より深くダイブし、書字の内奥に折り畳まれていた潜在性を開きひろげる試みではないか。
すると、いままで記号の体制下にあった字の内奥に風が吹きはじめ、さらにどこか遠くへ吹き渡ってゆく。観るぼくらのことも、どこかへ運び去ってしまいながら。よって、北村宗介の書はあくまで書であって、書字のアブストラクションやアートとの境界性を問うものではないように、ぼくには見受けられた。
北村宗介さんの揮毫は、字に深く潜行すればするほど、その奥底に自由を見いだしてゆく。まだまだ、書くべきことはあるのだけれど、この個展については別誌にレビューを書く予定なので、いったん、ペンを擱くとします。
ギャラリーを辞去する際、ぼくも、風の連作群の一点を購めることにした。
ぼくがえらんだのは「風聲」という書作品。会期が終了次第、自宅に郵送してくださるそう。届いたら、本ブログでも紹介したい。
早くこないかなと、見沼で風をまっている。
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