2018年6月21日木曜日

空蓮房「形相」展へ



 昨年の六月、一月にわたってぼくの詩個展を開催していただいた蔵前のギャラリー「空蓮房」で、新個展が開催しています。
 アメリカを中心に活躍されている写真家・兼子裕代氏による個展で、タイトルは「形相-Appearance-」。個展の詳細は、下記、空蓮房ホームページからお読みください。

http://www.kurenboh.com/jp/show.html

 ぼくも、さっそく、観てきた。

  形相とは、古代ギリシア哲学にいう森羅万象の表れ、顕現(エートス)でもあるが、展示はまさに形相(ぎょうそう)、人の顔、心身の表情をとらえた写真作品でもある。

 ギャラリー「空蓮房」は一回につき一名しか入場できない。茶室のような、繭の白い内面のような空間で、観客は独りで作品とむきあい鑑賞(観照)するというのがギャラリーの趣旨だが、今回の展示も、まさに空蓮房だから顕現した時空間、心の世界ではないだろうか。

 空蓮房に入房すると、一方の壁面に、哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉、「『顔』は、神の言葉が宿る場所である」と書かれてある。ぼくらは、独り、兼子氏の撮影した見ず知らずの他人の顔と対面しつづけるのだが、それらの「顔」は、ときに刮目し、瞑目しつつも、なにかの言葉を発する手前のような表情をうかべている。

 他者と対面する静寂を奏でるのは、兼子裕代の写真作品であり空蓮房であり観る者の心鏡でもある。写真をまえに、時とともに音がうつろい、光線が翳り、肌がちがう温みを感じとる。トランプ政権や安倍政権をはじめ世界的に保守・右傾化の兆候がみられ、人種差別が横行し、政治的にも危機的ないまという時代。レヴィナスの言葉を経過して、ぼくは、見知らぬ他者と他者が写真という隔たりのうちに顔をあわせる静謐を体感している。

 言葉で語れるのは、ここまで。なんどでも通わないとその深みを味わえない、いい展示でしたよ。ぜひ。


0 件のコメント:

コメントを投稿