新型コロナの影響で取材もままならず、休止状態になっていた左右社ウェブ連載中の詩的紀行エッセイ「詩への旅」。
やっと、再開できました。
今回は、いまや偉大なマイナー詩人となった安東次男を岡山吉備路に訪ねる旅。瀬戸内海の情景とともに、アンツグさんの詩をお愉しみください。
http://sayusha.com/webcontents/c21/p八月というのは享けつがれた果物だ──安東次男
ぜひ、ご一読ください。
新型コロナの影響で取材もままならず、休止状態になっていた左右社ウェブ連載中の詩的紀行エッセイ「詩への旅」。
やっと、再開できました。
今回は、いまや偉大なマイナー詩人となった安東次男を岡山吉備路に訪ねる旅。瀬戸内海の情景とともに、アンツグさんの詩をお愉しみください。
http://sayusha.com/webcontents/c21/p八月というのは享けつがれた果物だ──安東次男
ぜひ、ご一読ください。
金木犀の花はまだみえないが、なんとなし、あの、黄金の秋の芳香がただよう。
連載エッセイ「旅に遊ぶ心」の仕事で、ふたたび、鬼怒川金谷ホテルに滞在した。エッセイは、『暮らしの手帖』連載でも活躍されている写真家、砺波周平さんとの散文詩のように短い紀行文なのだった。
下記リンクから、ぜひ、ご一読を。砺波さんの美しい写真作品はまさに眼福。
https://kinugawakanaya.com/tabi/vol3/
初秋の長雨が一止みした鬼怒川渓谷は、深緑の葉がすこしずつ水にうすまって黄砂となり、山道の木下闇には水引の惑星直列が紅く灯って、千日香などの秋咲きの山野草がちいさな詩をうたう。
隠れた名史跡、日光杉並木街道を散策しエッセイの題材をもとめたあとは、透明で水のやわらかい川の温泉で、こころと体をほぐす。
それから、携行用のA4版の満寿屋製原稿用紙にペンで執筆。
一息に書き了え、いよいよ、金谷流懐石料理をいただく。今回は、とちぎ和牛スープ仕立てのステーキ、が美味しかった。いつもながら、華やかなサプライズのある和敬洋讃の懐石料理。知る人ぞ知る勝沼の銘白ワイン〈菱山〉とも、よくあった。
ちなみに、鬼怒川金谷ホテルのウェブサイトは、現在、国際ポエトリーサイトをともに鋭意制作中のデザインカンパニー・ストゥーパさんの仕事でもある。
その国際ポエトリーサイトは、いよいよ、来月からプレオープンとなり、始動を予定しています。
次回のブログでネーミングや概要をお伝えできれば。
帰りに、新型コロナ療養から復帰したばかりの担当編集者の方に、JOHN KANAYAのショコラをお土産にえらんだ。ご本人はもとより、ご家族のご苦労はいかばかりであったろう。ホテルからお見舞いの電話をすると、「娘が喜びます」とおっしゃっていた。
というのも、以前、金谷ホテルのショコラをお土産にしたら、その味に感銘をうけた小学生の娘さんが、ショコラティエをめざしはじめたとか。
いまが困難な時代であり、自分が恵まれた仕事をさせていただいていることは、重々、承知している。
けれども、困難な時代、の物語を幾重にもかさね重苦しく消費しているだけでは、人は前にすすめないともおもう。
鬼怒川の秋はひとときの夢だったが、こんな時代だからこそ、ちょっとでも、夢見ようと努めたい。
夫婦で逗子に遊んだ。
ただ、ただ、静かに海を眺めに。
駅ちかくの、魚屋さん直営の居酒屋で昼餉。近海魚のお刺身、
それから、海岸沿いにそぞろ歩き、標高90メートルの山頂まで、
だれもいない山頂から、江ノ島、三浦半島、
の詩を口遊む。
まだ神無月だというのに
アフロディーテやらアテナイやら
女神たちがつぎつぎと
海を渡ってやってくる
(「ある一日」より)
新倉俊一先生は、いうまでもなく、エズラ・パウンド、エミリ・ディキンソン、西脇順三郎研究の大家であり、英米詩の翻訳者・紹介者として高名だが、詩人としても知られている。けれども、先生が自作詩集を刊行されたのは、2000年代にはいってからのこと。ちなみに、『ウナジョルナータ』は、装幀がユニークだ。表紙は西脇順三郎のデッサン画で飾られているのだけれど、まったく同じ絵が、新倉先生が1976年に角川書店から翻訳刊行された『エズラ・パウンド詩集』の裏表紙に使用されている(つまり、この二冊の表紙と裏表紙は鏡像のように反転している)。『ウナジョルナータ』を新倉先生からご恵贈いただいた折、「あれ、この詩集、どこかでみたことが…」と不思議な既視感に悩まされた。
ぼくは、大学院生のころ、新倉先生のエドガー・アラン・ポーについての講義を受けた。現代哲学、数学、記号論にインスパイアされたぼくのレポートは、ほかの教授からはCだのFだのをいただいたが、新倉先生だけはAプラスをくださった。一年間の講義の最終日に、新倉先生は大学院生たちのまえでにかみながら、「いつも他者の詩ばかり読んだり書いたりしてきたけれど、たまにはこういう娯しみもないとね」とおっしゃり、西脇順三郎が登場する長い自作詩を朗読してくださった。もう、二十年以上まえのことで、当時、先生はまだご自身の詩を発表されたり、詩集にまとめたりはされていなかった。
そんな先生の姿に、ぼくは、不思議な感動をおぼえた。新倉先生は、壮年のポエジーを他者に惜しみなく与え、老年のポエジーをご自身のためにとっておかれたのかもしれない。真摯で、紳士な先生は、そういう方だったようにおもう。
新倉先生、どうぞ、安らかにお眠りください。
新型コロナの緊急事態宣言もかさなり、家呑みの時間をすこしでもうるおうものにしようと、古玩も、食器をもとめることがおおくなった。
前回、ややフライング気味に登場してしまったが、初夏の目白コレクションに出展していた京橋〈奈々八〉から、桃山時代〜江戸時代初期の古絵志野木葉皿をゆずりうけていた。
北大路魯山人がこれと同手を本歌にし、染付に詠み変えて木葉皿をつくっていたようだ。
紅葉図は桃山文化の代表的な意匠。ぼくの古絵志野木葉皿も、骨太の型押造形、自然釉にちかい釉調にすっと鉄絵の葉脈が描かれる。この手の模範的な作行だろう。流れるような灰釉の潮も、そこに飛び散った鉄絵も、美事。もとは五客か六客一揃だったのが散逸したのだろう。共箱は魯山人とも所縁ある黒田陶苑の作、前代はコレクターが所有。大変コンディションの佳い完器だ。
全体の色彩は紅葉というより朽葉色だが、そこが侘びており、じつにいい。魚の脂や炊物の出汁を吸うと、土味に紅い光が射すのが、これまた、なんとも。
魚が美味くなる秋冬の酒肴を盛るのに好適なのだ。
ひさしぶりに妻とでかけた。行き先は小田原。最寄駅から新幹線で一時間である。
ただ、海を眺め、美味い魚で呑み、温泉につかるだけの休暇。観光はいっさいしない。
ぎりぎり非常事態宣言まえだったので、缶ビールを車内で飲んでいたら、あっというまに小田原駅についてしまう。スピーディすぎて、旅の情緒がないなあ。こんどから、湘南新宿ラインにしよう。
さっそく、浦和の食通から教わった駅近くの鮨や〈潮り〉へ。相模湾の新鮮な近海魚を握ってもらう。まずは生しらすで乾杯。金目鯛、鰹、本鮪などをいただいてから、旬の胡麻鯖、ぼくにはめずらしいタカベ、ブダイなども握ってもらった。ランチとはいえ、ふたりで呑んで食べて八千円は高くないとおもう。
その日は、根府川の山あいのホテルに一泊。相模湾に沈む巨大な夕陽を眺めながら、温泉で体をほぐす。詩人田村隆一のみた魂の色彩。
翌日は朝風呂に二回はいり、チェックアウト。早川港から紺碧の海原を眺めたあとは、時間もあったので、小田原市街をそぞろ歩く。なんとなく御幸浜にむかっていたら、海岸へのおもしろい入口をみつけた。道路下をくぐって砂浜へでる半トンネルで、カメラのファインダーをのぞくように、矩形に海が切りとられてみえる。
そばには〈竜宮堂〉なんてカフェもあって。
また、非常事態宣言がでてしまい、立秋をすぎても、きょうなどは気温38度の猛暑日。
そうして家呑みがすっかり板についてしまい、同時に骨董、なかでも酒器や肴を盛る食器を入手するペースがいやましにあがる。
ぼくの盛夏の酒器は、大正時代の職人の手になる江戸硝子徳利に、初源伊万里盃や南宋砧青磁盃をとりあわせ、日毎の晩酌をまかなっている。
古染付とみまがう初源伊万里盃は、その名のあらわすとおり、日本人陶工の作ではないだろう。見込みのコバルトブルーにちかい釉溜や呉須の筆致もさることながら、厚ぼったい古伊万里とはちがい、繊細な花びらのように薄手の作行き。可憐に撓んだ器形も好もしい。紙なみに薄い口縁は酒雫の切れもじつによく、涼やかに呑める。
青磁盃は12、3世紀の作。翠緑の美しい釉調にはどこかあたたか味もある。このうえなくシンプルで、シャープな器形は南宋期龍泉窯の規範となる作行きだろう。白州正子ともゆかりの文芸評論家A氏の蔵出品だそうで、まさにコロナ禍の初期に譲っていただいた盃だ。
あのころ、どんな予感がはたらいて、この盃を手にしたのだろう。そんな物想いにとらわれつつ、酒器は真夏のままだけれど、立秋をすぎたので、江戸時代初期の絵志野楓皿をだし、奈良の押寿司を盛って一杯呑んだ。
夏から秋へ、器の心ははや移ろいだすのだった。
浅草寺のある東京浅草には、かつて、星多の写真館があった。演芸のロック座やキネマの浅草名画座とともに、浅草は写真の街だった。写真が趣味でお寺の住職だった祖父からカメラを譲りうけた谷口昌良も、ごく自然に、そんな「写真少年」のひとりになった。
ビーチボーイに憧れたクールカットの浅草モダンボーイは、詰襟の学生服にカメラを肩からさげて、吉原芸者や江ノ島の海をファインダーにおさめる。写真帖の余白に、ボヲドレエルを気取った詩を書きつけて。
そんな「写真少年」に出逢ってみたくて、隅田川のほとりにある〈iwao gallery〉に足をはこんだ。
「写真少年」、しかし、写真の私記性をふくめ、そのタイトルから連想されるいっさいから本展はうつろいだす。
写真ギャラリー〈空蓮房〉を主宰する谷口昌良らしく、展示方法はユニークだ。廊内には写真作品のみならず、谷口氏が三十年以上にわたり苦闘を書き溜めた極私的なノートや昭和高度成長期を感じさせるスクラップブックの大冊が設置され、これもまた谷口氏のコレクションらしき、1980年代のウェザー・レポートやパット・メセニー・グループのLPが鳴っている。ジャコ・パストリアスのファンだという谷口氏愛蔵のフェンダー・ジャズベースも飾られていて(本人はまったく弾けないらしい)、若い観覧客はおもわぬエイティーズカルチャーとの邂逅を愉しんでいた。
「写真少年」の黄金期でもあった、1980年代。谷口昌良は実家のお寺を遠く離れ、ニューヨークへと単身わたる。住んだマンハッタンのオンボロアパートは、貧乏ジャズミュージシャンたちの巣窟で、朝から晩までジャムセッションが鳴りやまなかったという。
アメリカン・ニューカラーの洗礼をうけ、レオ・ルビンファインの講義にもぐりこんだ写真少年は、懸命に、写真少年から脱皮しようと日々もがいていた。
当時のカラー作品で、とくに魅了された一点がある。
「1983, Picnic in Central Park in Manhattan」。
アナログカメラとランチ袋をもった口髭の東洋人青年とモデルなみに美しい白人女性が、こぼれるように咲く花枝のしたを、おたがいにすこし離れて、レンズへとうつむき加減に歩いてくる。視線をあわさず、べつべつに夢見るように。あらゆる意味で対照的なふたりは、谷口昌良の共通の友人かもしれない。恋人たち、といいきるには微妙な間があるが、ふたりは、時代の生む圧倒的な幸福感に浸されている。たまさか鏡像を結んだ無縁のふたりは、進行方向の右斜前へ軋むようにかしいで歩いている。それは被写人物をぎりぎりまで側近くとらえつつ、後背で雪色に咲き乱れる花木をもファインダー内におさめようとした、低めの仰角撮影の賜物であろう。
この偶然の効果が、おもしろい。
写真家がピントを絞ったのは、ニューヨークに春を告げるコンベントリーガーデンのマグノリアの花か、自己言及的にカメラを覗かせる青年か、はたまた、白花の袂からペルセポネーのように顕現したワンピースの娘か。
ところが、これらすべてにピントをあわせるかの写真には、いったい、どこに焦点があるのか不明なのだ。
まなざしは、写真の内外で情景や理解の物語を焦点として結ぼうとする。が、中心的な視座は散逸し漂泊し、写真の表面にあまねく偏在するようにみえる。ピントを欠いたものは、単一の焦点ではなく、さまざまなピントの星座、その布置関係を開示しようとしている。
その効果によって、マグノリアの花は、あやうく闊歩する男女のうえに、かれらにとって無縁であり有縁でもあるような不思議な祝福を降らせていた。
その写真作品から、世界の春のかすかに軋んだ謳歌を聴きとるぼくはこんなことを想う。
仏教語でもある、流行。すなわちモードと写真の蜜月はだれもが知るところだ。流行の本質たるうつろいやすさは、それがつねに最新でなくてはならないということ。けれども、ロラン・バルトが述べたように、モードにおいてはかつてのタイプが最新のものとして「神話的」に回帰する。流行という移ろいやすく虚ろな現象では、永遠に反復する神話的自然と最新の歴史的事象という思考の二極は宙吊りにされる。
ただし、流行にもなけなしの唯物論があろう。それは、いかなる超越への追想も、変移なくしては不可能になる、という客観だ。写真という〝永遠の瞬間〟を切り撮る行為は、破壊されたものとして、もっともうつろいやすいものをつうじて現像される。自然と歴史が絡みあう瓦礫、破片としての、写真。
アメリカン・ニューカラーは、アメリカという土壌から、写真だけに可能な新しい色彩を生みだそうとするモダニズムだった。ゆえに、そこには一点の写真を成立させる成熟した決定もあったろう。
たいして、その子ども、永遠にもがくがままの「写真少年」谷口昌良の写真展は、想念された1980年代に、写真を春のかけらのように降らせていた。
(谷口昌良写真展「写真少年1973-2011」 2021.6.17(木)ー7.4(日) 於・iwao gallery/東京蔵前)