ながらく更新ができずに、すみません。多忙でした…コロナでは、
金谷ホテルグループのお仕事で、鬼怒川、那須高原、箱根、
関東は4回目の緊急事態宣言とまんぼうになってしまったけれど。
以前にも書いたように、鬼怒川金谷ホテルの季刊パンフレットで、
そして、同パンフレットには、
2021年夏号のパンフレットには、
https://kinugawakanaya.com/#invi
旅もままならない、いま。せめて、気分だけでも、上リンクより、ぜひ、ご一読ください。
ながらく更新ができずに、すみません。多忙でした…コロナでは、
金谷ホテルグループのお仕事で、鬼怒川、那須高原、箱根、
関東は4回目の緊急事態宣言とまんぼうになってしまったけれど。
以前にも書いたように、鬼怒川金谷ホテルの季刊パンフレットで、
そして、同パンフレットには、
2021年夏号のパンフレットには、
https://kinugawakanaya.com/#invi
旅もままならない、いま。せめて、気分だけでも、上リンクより、ぜひ、ご一読ください。
そうした連作写真にたいし、唯一額装された最後の〝作品〟が、静謐な異光を孕んでいた。
それは、今井智己がすべての作品を撮り了え、下山した瞬間に出逢った光景だったという。
全体は、一日の光がついえる直前の、仄蒼いトーン。そこはなんの変哲もない無景観の湿地で、水鏡の内側へ、枯れ葦が祈るようにたおれこんでいる。泥水からつきでた石塊や枯れ草のうえには、微光がふりそそいで、ぼくの視線にはその色彩が雪とも灰とも映った。
全体のなかでその写真だけが、明確に、構成と重量感をもっていた。
写真の繭を想わせる空蓮房で、独り、今井智己の写真とむきあっていると、こんな言ノ端が降ってきた。
光自身にもみえない光がある。
今井智己が展示に寄せた言葉−写真の記憶は「遠く深く離れていく」−とともに。
写真は光を受胎、いや、代胎するが、光景に欠けているなにかを補い、償い、現在の犯す過ちを匡すのではない。写真はそのように存在しているそのままの光景へと移り=写り住み、その〝現像〟の最中、代替行為はみずからの主体も場所も知ることがない。
今井智己の写真作品、あるいは光景の代胎は、あらゆる存在の独自の生起がつねにすでに共通のものである、と、震災の「十年」をこれからも抱きしめる。
(2021.3.3-4.23 東京蔵前 ギャラリー空蓮房にて展示。前回、今回ともにブログ冒頭の写真は筆者撮影の隅田川光景)
今井智己「『十年』−A decade」は〝3.11〟、2011年3月11日午后2時46分におきた東日本大震災と、福島第一原発のメルトダウンからはじまる「十年」を撮影した写真作品展である。
今井は、倒壊した福島第一原発〝建屋〟の背にひろがる阿武隈山系を尾根伝いに歩きつつ、十数か所のポイントから、地図と方位磁石をたよりに建屋の方角をむいてシャッターをきりつづけた。
繭の白い内面を想わせる、日本の茶室の間取りにちかい空蓮房の壁面ぞいに、額もタイトルもなくただ撮影日だけが付された一連の写真作品が、細いワイヤーで宙吊られている。奥の水屋のような展示室には、額入りの大判作品と、プロジェクトの概要とドキュメントが流れる液晶ヴィジョンが対面で展示されていた。
ワイヤーで吊られた最初の写真には、「2011.4.21」の日付がある。今井は、原発事故の周囲二十キロ圏内が立入禁止区域化される一月前に、この写真を撮ったのだった。
その一枚には、東北の春霞の空、阿武隈の雄大な山並の奥に、かすかに福島第一原発のある陸地がみえ、消尽点のさらにむこうに、津波が大勢の生命を奪った、東北の冷たく澄んだ碧緑の海がわずかにみえる。写真は、人の視線からみると、静かにすぎる時の流れを奏でている。
震災から二年が経過した「2015.3.11」の作品には、シルエットになった雑木林のあいまから、おなじく霞んだ空、コバルトの海と白波、遠景からは窺い知れない建屋らしき建造物が、もうすでに、何事もなかったかのように白い点になって写っている。
時を経るにつれ、各撮影ポイントを夏の緑や冬の裸枝が繁茂して覆う。建屋への視線を遮る。無人になった土地に大自然だけが、美しい威声をあげて帰還してくる。
印象にのこったのは、撮影対象とともに写真作品の表情だった。今井は一眼レフカメラと三脚を担いで撮影ポイントを彷徨し、ファインダーにおさめたはずだが、作品はどれもスナップ写真のように軽い質感で、フラットな表情をしているのだ。 (つづく)
(於 ギャラリー空蓮房 2021.3.3-4.23)
新型コロナ蔓延防止策がまたも延長、か。
ここ二ヶ月、春日部の麺屋豊さん以外は、まったく外呑みしていないのだが、家呑みが板についてきてしまった。
外で呑んでいる景色が、もう、思い出のようにすら感じられたので、いま、自分がゆきたい呑み処を戯れに想いうかべてみる。
一、浅草 駒形どぜう本店
二、浅草 鎌寿司
三、浦和鰻 中村家
筆頭に、どぜう、というのは自分でも意外だった。たしかに、ぼくの梅雨はどぜうを食さねば明けまい。そのことを自覚した。
さて、そんな独酌の独り言のお供は、酒が「七賢 絹の味」、肴が「いざさ 柿の葉寿司」。
盃は松浦系窯の古唐津立ちぐい、徳利は桃山時代の緋襷預徳利。柿の葉寿司は大正期の白タイル、手造り珍味数の子白子和は李朝刷毛目皿に盛って。
まあ、こうして、じっくり自分の酒器とむきあう日々もいいものだが、いま、大変な思いをしている飲食店のためにも、早くワクチンでもなんでも接種して、梅雨のどぜう鍋と洒落込みたい。
ことしの夏は京都に、鱧を食べにゆけると、いいな。
以前、古山子こと小山冨士夫作の徳利について書いたとき。桃山時代の無地志野盃ととりあわせられれば理想、と書いた。
すると、近頃、頻々に骨董についての手紙やメールを交わしている詩人の城戸朱理さんが、誕生日の祝い物にと、なにやら小包をお送りくださった。
小包を落掌し、開封してみて、おどろく。
桃山時代の織部志野盃が、はいっていた。
無地志野なら紅も差し、人肌のごとき温みある色だが、「織部志野は雪のような青みを帯びて、それもいいものです」と、送り状にあった。その盃は、古唐津の山瀬窯盃の肌を想わせる灰青でもある。
お気持ちもうれしくて、二合半はいる古山子の徳利を三度みたし、半升瓶を呑みあかした誕生日だった。
翌日、一枚板のテーブルにのこされた盃と徳利を、城戸さんにスマホで写メしたら、「志野織部の盃も古山子の徳利も唐子の古染付皿も、まるで昔からそこにあった感じがするのが面白かった」とのご感想をいただきました。
またもや、グーグルブロガーの不調で、ブログのアップが遅くなってしまった。最近、調子が悪いみたい。
新型コロナ禍も変異ウィルスが出現したり、緊急事態宣言が延長されたりで、巣篭もりの日々がつづく。
さて、きたる7月4日にTOKYO POEKET 2021のゲストに招かれたのだが…残念ながら、二度目の延期とあいなった。変動のおおいコロナ禍の状況にもかかわらず、たゆまず準備をされてきた運営実行委員会のみなさま、そしてポエケットを愉しみにされていた出展者の方々に、お見舞いを申し上げたい。
三度目の正直、来年こそは、笑顔でみなさまとお会いできますように。
さて、そんな混乱のさなか。やっと愛用の満寿屋謹製原稿用紙がとどく。
原稿用紙が切れていたので、二ヶ月ほど、万年筆やボールペンでノートに書くを余儀なくされていた。時世柄、原稿用紙も種類や販売店がすくなくなり、さらに、コロナが追い討ちをかけている。まあ、同世代の詩人をみわたしても、原稿用紙に手書きはぼくくらいなものだ。
ぼくもいまは、手書き原稿をアシスタントさんにタイプ清書してもらい、詩も散文もデータ入稿するほかない。
それでも、原稿用紙に手書き派は、確実に一定数は生存しているようで、満寿屋さんも健在だ。
以前、小説家の朝吹真理子氏とお話ししたとき、執筆過程の半分は原稿用紙に万年筆で書いているとお聞きして、うれしかった。
きょうはノートに書き留めた長篇詩を原稿用紙に清書。
かつて原稿用紙入稿が一般的だった時代。執筆者用箋の原稿の余白には、混入を避けるため、名入れや璽印が捺してあった。
あのころの佳き習慣に倣い、ぼくはいまも、書家北村宗介さんから贈られた璽印を余白に捺している。
そもそも、フリーランサーなので、毎年の黄金週間は自宅ですごす、というか、たまった原稿を書いていることがおおいのである。遊びにゆくのは、人波のひいた連休後に。
きょうは、春の酒器たちを共箱に仕舞い、夏の酒器をだした。
酒を注ぐ片口として見立てたのは、江戸時代初期の瀬戸麦藁手夏茶碗、盃は手前右が古山子こと小山冨士夫作の斑唐津盃、奥左が桃山時代の初源伊万里盃、です。ここ近年は、近現代の陶芸作品と古器をあわせるのが、なんとなくマイブーム。
せっかく、休日だし、酒器もだしたし、新緑を眺めつつ昼酒を。いただいた唐墨をおつまみに。
酒は白州町にある山梨銘醸株式会社の「七賢 絹の味」。
七賢といえば、いま、準備中の国際ポエトリーサイトでもご一緒しているデザインカンパニー「stoopa」さんと、春に七賢の英語サイトをつくったのだった。
ぼくが詩的テクストを書き、翻訳家の渡辺葉さんが素晴らしい英訳をしてくださった。
よろしければ、ご覧ください。
そして、みなさま、こんな状況下ではありますが、コロナに気をつけて、よきゴールデンウィークを。願わくば、酒は七賢をご用命ください。